30年前日記抄
本莊雅一
「わあ、本荘くん!」「え、本荘!?」「まあくんだ!」
約半世紀ぶりに会う中3時代の同級生たち。無残に変わった奴もいれば、ほぼあの頃のまま、むしろ美しくなった女性たちもいる。あの大雪の衆議院選挙の日に行われた同窓会。街も雪で風景が一変する中、私たちにとっても時空変革(トランスフォーメーション)が起きたような忘れられない一日となりました。
一月末に私の塾へ一本のメールが入りました。「柏四中3年6組(以下女子個人名)」
は?何が起きた? 椅子からずり落ちそうな衝撃を受け、開いてみると、同窓会の連絡です。既に十数名出席予定でリストを見ても思い出せない人がいる。やばい。ともかく唯一、予定も仕事もない日だったのですぐに「参加します」と返信し、それから懸命に「復習」を開始しました。
卒業アルバムで顔と名前は照合。少しずつ記憶がよみがえってくる。中1からつけていた日記も引っ張り出して読み返してみました。するとまるで脳ミソの栓が抜けたみたいに次から次へと様々な記憶がもれ出てくる。書いてないことまでわらわらと目の前によみがえり、時空の流れが歪んでまるで半世紀前の時のほとりがこちらへ近づいてくるような日々となりました。本当にやばい、今度は塾の仕事が手につかなくなってくる。
「東葛地区」駅伝大会の選手候補として部活終了後も走り込む日々だったのが、腰のけがに見舞われマネージャー業務に回る。自殺を考えるほど悔しさにのたうち回る。振ってしまった形の後輩への想いが募る。無様な自分に比べテニス部の彼女がどんどん輝いていくと。呆れるほど細かく書いていました。
また書いてあるのにどうしても思い出せないこともたくさんあります。かなりインパクト強いはずのシーンを克明に描写しているのに、全く思い出せない。こんなことってあるのか?「バカかお前は!」と自分をけり殺してやりたい場面もあれど半世紀前ではどもならん…
ちょっと危険かもしれない気持ちの渦に耐えて同窓会当日を迎え、実際連中に会って童心に返り、ようやく浄化された格好でした。
その後の日記も読み続け、スキ間時間に“未知の”ストーリーを楽しんでいました。1993年からは自分の子供の育児日記。児言態に提供できそうな言語生態資料も満載で、いまさらながら唸ったり大笑いしたりしながら読み進め、とうとう運命の1996年(平成8年)に入った。
前年の1995年(平成7年)は阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、オウム真理教の強制捜査、警察庁長官銃撃事件と、事の多い年でした。
1996年(平成8年)。1936年(昭和11年)の226事件から60年目の年。
以下、当時の日記から抜粋します。
1月2日(火)上原先生のお宅に伺った。A(息子:2歳3か月)、先生のことが気に入ったらしい(人見知りだったから珍しい)。ずいぶん興味深そうに接近するものの、べったりとはさすがにできない様子だった。「たくましい顔になった」とほめていただいた。吉田松陰自筆の掛け軸が手に入ったと見せてくださった。美味いにごり酒をいただいた。「(自分が名付けた)Aに何かプレゼントしなきゃな」すっかり上機嫌の先生が言う。「三輪車など…」と家内がさりげなくせがんだ。「うーん」と師はうなる。こりゃあ、本当に三輪車が届きそうだ。
1月7日(日)芸術家の岡本太郎が死んだそうだ。千葉県の柏の方で広範囲にわたって爆発音が空に響き、何か光るものもあったと。航空機からの報告にも、流星のようなものが、千葉の方へ飛んでゆくのが見えたという。また利根川の河川敷で、6000平方メートルにわたって火事があったという。隕石の疑いが強いらしいが、実物はまだ見つかってないらしい。隕石にせよ、UFOにせよ、面白い現象だ。満月の晩なのだ。
1月10日(水)帰りの途中、正面の夜空(南の方だった)青緑色の大きな光の玉が、ゆっくりと、落ちていった。家内もAもちゃんと見た。「また隕石かねえ」と話した。8時ごろだったろうか。ニュースでやるかな。
2月10日(土)北海道の積丹半島でトンネルの崩落事故発生。5万トンもの岩盤に、トンネルごとバスや乗用車が潰された。20名ほど埋まってしまった。
2月13日(火)トンネル崩落事故は依然として進展せず、岩は動かない。司馬遼太郎が死去。
2月14日(水)(Aが)トンネル崩落事故の新聞写真を見て「バスキレーキレー」と騒ぎ出した。バスは写ってないのに何か見えたのだろうか。「お兄ちゃん、お姉ちゃん、おじちゃんが…」何か言い始めたがそこで電話。間違い電話だった。もう一度聞き出そうとしたら、また同じ間違い電話。もう一度聞き出そうとしたが、そこでごはんになって、せっかくのAの神託がおじゃんになってしまった。忌々しい間違い電話だった。
2月16日(金)夜中12時23分頃、東北地方中心に最高震度4の地震発生。この団地も今まででは一番大きく揺れた。
2月17日(土)トンネル崩落事故は最悪の結果。20人全員の遺体収容。バスの車高が1メートル程度に押し潰され、損傷の激しい性別もわからぬ遺体が多い様子。身元の確認にも手間取っているという。
4月2日(火)今日平塚の高村団地に申し込みをした。上原先生も、我々が(埼玉から)高村団地に越してくるのは歓迎であるようだ。
4月4日(木)上原ゼミの仲間だったM女史が4月20日に結婚するとのことで、お祝いの言葉を葉書で送った。
4月7日(日)今日は天気も良く桜もよく開いて花見に絶好の日和だった。Aと二人で歩いたが、「ゆき」とAは言った。「サクラ」と先に教えていたが、「ゆき」と言った後「ゆきみたいね」とうっとりしている。(雪が積もった時は「くも、くも」と喜んでいた) 風が吹いて少し花びらが散るのを見て、またそう思ったようだ。桜に対して初めて積極的に反応した。
(この日、上原先生と家内が電話で交わしたやり取りを聞いて何やら自分が混乱したらしい。内容は全く覚えていないが、この後の記述がかなり物狂いしていた)ともかく私のようなお人好しこそこの世の悪とみなされるらしい。信じてだまされることの悪。打算を先行させぬことの悪。ウソをつけぬことの悪。
上原先生までも、私とは全くの異人種だと分かってしまった。ま、これまでも、どうも私と上原先生は何か決定的な断絶があるような気はしていたが、それがはっきりわかり、それから目をそむける気もなくなった。正視したからといって、かといって上原先生への敬意がなくなってしまったわけではない。それはそれ、これはこれ、と柳に風の心地だ。世の中のすべてが私を刺し、私が発狂して死ぬならそれもよかろう。それこそ勲章ものだ。世間の常識とやらにはどこまでも馴染めないようだ。
Aよ、お前はどう生きる?
お前の親父は、どうも人間社会からは常に脱落し続ける奴で、いまさら自分の生き方が本当に純粋なのか美しいのかもわからぬし、判断する気もない。何しろ、私は自由に生きる能力がない。こんなに世間になじめないのに、自由になりきることもできない半端野郎だ。だから、せめてお前の自由に生きる才能は潰したくない。みんな、大人たちは、子どもからその能力を奪おうとしている。
4月10日(水)(転職予定だった)Sゼミナールと条件面での交渉。満足のいくものではない。他の塾の名とtelを調べに、平塚の方まで出た。結局大磯まで出たが、ここまでくると急にローカルな駅になり、周りも真っ暗だ。こんな所に、予定通りだったら住むことになったのだなあ、そう思った。その可能性は低くなった。上原先生もがっかりするかもしれないが、なるべくこの近辺で捜せれば、捜してみようと思う。
4月11日(木)朝8時30分に電話が入った。目はさめていた。Iさんだった。「久しぶり」と思って、そう言ったものの、声がどす黒く沈んで、そのくせふるえている。地底のうずがどこぞへもれたままたぎっている様なそんな声だ。
いやな予感がした。
「ついさっき学校(玉川大)の方、石橋先生から連絡が入ったんだが」
いやな予感に形が付いた。何が起きたのかほぼ想像がついた。聞きたくなかった。
「先生が…」
2、3日前だ。も少し前だったか。夜、慈眼寺のしだれ桜のもとへ来て、何か、その桜の為にお経なり、祝詞なりを奏したかった。恋歌のような、別れのような、そんな歌がふさわしい気がした。思い至った歌が、
あらざらん この世のほかの 思い出に
いまひとたびの 逢う こと も がな
これをゆっくり、唱え上げるように奏した。でも、本当にこのしだれ桜と別れるのだろうかと思いもした。この和泉式部の歌は、上原先生が退官なさるときの最終講義で、冒頭に据えられた歌だ。
7日に先生が電話で家内に言ったという、「自分を安売りするな」の御言葉が、なんとなく耳にこびりついている。何だか反発する気持ちもあった。金のことで、他でもない上原先生にあれこれ言われたくなかったし、また心配されたくもなかった。10日の日に転職先調べで最終的に大磯駅に降り立ったら、そこはローカルな駅で光も少なく、辺りは漆黒の闇だった。
その頃、上原先生は誰かとお酒を飲んでいたことになる。気持ちよく酔えたろうか。何を話していたのだろう。
私が帰宅したのは10時過ぎ。家内もAもまだ起きていた。いろんな話をした。私は疲れていた。風呂に入ると、すぐ眠りについた。同じころに、先生も風呂に入ったろうか。先生は風呂が好きだ。気持ちよく酔えたのだとしたら、さぞ格別極楽気分だったろう。
夜中の2時ごろ、家内は起き出していて、卒業写真の類を見ていたという。上原先生の写真もじっと見ていたという。
そのころ先生は風呂の中で何を見ていたろう。何を考えていたろう。何を夢見たろう。何かすばらしいものを見たろう。風呂の湯は、羊水。先生は胎児に等しい姿。風呂は母胎。酔っていい気持ち。何の苦しみもなく、本当の極楽の境地で、どんなイメージを見た。先生、教えてよ。ずるいよ、先生。 何でも私には教えてくれたじゃないですか。先生のお父さんのように金色の車がやってきましたか? 先生、 上原先生、 上原輝男先生、
私は破門されたのですか?何故私は先生から遠ざけられたのです。何故、先生の近所の住人になるかもしれなかったのに。
先生らしいよ、まったく。あれこれ散らかしっぱなしだ。『子ども原像』のこと、馬のこと、残しっぱなし。けさ、MちゃんTくん(お孫さんたち)が、風呂で母胎回帰した先生を見つけた。Aには、先生が神様のところへ帰ったと伝えた。
「かみさまのところ、かえったの、かえっちゃったの」Aは言った。
タタミの上で死ななかった。
みんなに囲まれて、最後のお言葉をカッコよく述べて、なんていうことは照れくさかったのか。変なところで先生は照れ屋だ。黙って、一人で勝手にさっさといっちゃって、まるでゼミ旅行の時の行動そっくりだ。
3月6日だったか、Oの送別会を先生宅でやった。「本莊、お前には仕事があるぞ」そうおっしゃっていた。その翌日だったか、電話で話した。親父の病気のこと話したら、えらく心配してくださった。
平塚の高村団地に引っ越すかもしれないことを家内が伝えた時には、ずいぶん喜んでくれたそうだ。正月にはAに向かって「お前のお父さんと旅行に行きたいよ」と言っていた。先日「最後の研究会」で、「天上天下唯我独尊」の掛け軸を拝見した。これも先生らしい注文だ。
今日という日がいつかは必ず来ることを、予想はしていた。特に最近は時折意識していた。去年書いた「夢論文」をやたら褒めてくださったときは、嬉しくもあったが、「今日」が近づいているんじゃないかと思ったりもした。
今日という日が来たときには、私自身、何かが終わるということも、覚悟していた。追い腹を切ることは許されない。 しかし、追い腹を切ったも同然の在り方にならねばならない。
私は今日から死人(しびと)だ。 いかにして死ぬか、そのことのためにかりそめの生命を燃やす。
哀しみの気持ちは、通勤中の車の中で満足させた。存分に泣けた。もう、 今は静かな気持ちだ。 塾でコピー機や印刷機を見て、上原先生がいなくなったというのに、なんでこれらのものが存在するのだろう、と不思議だった。先生の存在しない「この世」なんてあるのだろうか。先生がいない以上、この世はこの世でなくなるはずじゃないか。少なくとも私自身は半分以上、この世の存在ではなくなったのだ。
時ならぬ寒波で、夜空は恐ろしく冴えかえっていた。星が不気味な程 大きく輝いていた。慈眼寺の桜は、しだれ桜はもう散り始めていた。 ソメイヨシノは今を盛りと咲き誇っている。
ちらちらと花びらを舞わせつつ、湧き上がる雲のように、華麗に咲いている。風と花と星と月とが、こよい、何事かを催させていた。
あめなる花を 星といい
この世の星を 花という (宮沢賢治)
この世の最も美しい星が、桜と共に天上に咲き返った。
もうこの世においては触れることができない。
しかし、
先生は時空を超えて遍在するものとなった。
もう、いつでもそばにいてくださるのだ。
そう、静かに思えるようになった。もう悲しみはない。不安もない。
先生を送る儀式の類で、功を争うようなマネはよそう。
ただ意地汚くなるだけだ。
先生が残したものを手に入れようとするのではなく、先生の目指しているものを、今後先頭切って目指せばよい。それが一番のはなむけだ。
4月12日(金)先生がいなくなったとは思えなくなってきた。いつでも私の血肉のうちにいてくださると、そう感じるようになった。私とは明らかに異人種でもあった先生との間の断絶は完全になくなってしまった。今、先生の御魂と私は一つになれている。
明日の告別式は別に行かなくてもいいような気分だ。いたずらな気持ちで行ける。そう、実は先生の告別式を見るというのではなく、「私たち」の葬式を見るのだ。これは見ものだ。「私たち」の葬式なんてめったに見られるものではない。せっかくだからお絵かきしようと思う。
先生とはもう相対しないというよりしようにもできなくなった。一つなのだから。一つものとなったのだから。「ひとつもの」いい言葉だな。先生を敬愛する者は、誰でも先生と「ひとつもの」になれる。先生はそのような存在へと転位した。
葬式は神式で行うという。神様になって下さるのなら、早速お札を招いて我が家の神棚に収まっていただく。先生との断絶感が完全になくなった。残された課題は多いが、すべてこなそう。先生も、私という若い血肉を利用なさればいい。
4月13日(土)
朝5時半起き。塾に車を置いて平塚斎場へ。埼玉でも富士山がくっきりと純白の姿を顕わしていた。白鳥になった先生を思う。本厚木駅で、ちょうどOやHと落ち合う。タクシーの中から見る富士は、紅に染まり間近に迫って見える。斎場には10時過ぎに着いた。祭壇の前飾りはいかにも豪華で立派だが、その舞台装置の背後は何もない吹きっ晒し。そんな所にお棺はポツンと置かれていた。何か寒々しい光景だった。一見豪華でも、単に見てくれだけの衝立で仕切って、先生と弔問客を隔てているだけ、そんな感じがした。
Tさん(ご子息)に案内されて対面した。一瞬、険しい無念の相が見えた気がした。志半ばというには、余りにも半ばすぎるというか、まだこれからという時だったのだ。だがよく見ると、実は穏やかな表情をしている。すました顔で何か考えている風でもある。鼻の頭やほおのあたりに少し傷のようなものが見えるのは、水に長くつかっていたためふやけて、拭いたりしたときに破けたのだという。 死亡推定時刻は午前2時頃。
私は何だか愛くるしいものを見たような感興を催して、棺に手を添え先生の顔に自分の顔を近づけて、「先生」と呼んでみた。返事はないが、聞き入れられたように思う。顔は脳内出血のため赤みを帯びていて、おとなしい死人の顔とはちょっと違う。むしろ赤鬼のようなエネルギーさえ感じさせる。目から下は水に浸されていたらしい。風呂から上がる瞬間に脳溢血に襲われたとのことで、右足は湯船の外に出ていて、目の前が見えなくなってそのまま湯に落ちたのだろうという。血は鼻や口の中にもあふれていて、その処置も大変だったとか。
あさ、7時ごろにT君(お孫さん)が見つけて、「ジージ」と呼んだけど答えなかった。鼻から下は、舞楽面の様に大きく膨れ上がっている。鼻や唇も大きくなっていて、その点で人相が変わってしまっているものの、それにより福神のような愛嬌までも備わっていた。目元は涼しい。見方によっては、微笑んでいるようにも見える。いわゆるデスマスクには見えにくい。やはり神になったというべきか。
相模六所神社の宮司様が斎主として祝詞奏上。見事な祝詞だった。ぼわんぼわんと音が膨らんではしぼむ繰り返し。その波がそのまま祝詞になっている。名称は忘れたが、アイヌが口に含んで奏する楽器、ビービョンビョンと鳴るあの楽器の音を想起させる祝詞だった。祝詞もああして、肉体を楽器にして奏するものだと分かった。禊(みそぎ)祓(はらえ)の奏上部分に引き続いて先生の事績を紹介する部分も、祝詞の旋律で奏せられる。Nさんや小泉さん(旧姓)の弔辞があり、その後玉串奉奠で終了。柏手は「忍び手」で行われる。静かで、透明な印象の残る告別式だった。
出棺に際しては玉川大の学生が「労作」(ボランティア活動)で行うようだったので、私も急いで駆け付けた。先生に縁もゆかりもない者たちだけで担がれるのは何とも偲び難い。棺を閉める前に、花で埋める。遺族に紛れて私とOさんは、先生の額に触れて、最後のお別れをした。Oさんは大学を卒業して間もないが、先生の内縁の妻と呼んでもいいほどに、上原家に食い込んでいた。今日私がOさんに会ったというか、見かけたのはこの時この瞬間だけだった。本人はどう思っているか知らないが、先生への愛は私にも負けず劣らず強い子だと思う。先生と結婚することなく、彼女は未亡人になってしまった、そんな風に思えた。
そして私は「八瀬の童子」になった。棺はそれほど重いとは感じなかった。
火葬場へ着く。ここは窯の周りをガラス張りにして弔問客が近寄れないようにしてある。いよいよ先生の棺が窯入れされるとき、みな息をのみ、女性たちは激しく嗚咽し始めた。
自分でも不思議だった。全く透明な気持ちでしかない。前の晩に一緒に酒を飲んでいたというYさんに話しかけて、先生の言葉を聞き出そうとしても無視され、それでも腹立たしい気持ちも起きず、先生の肉体が完全に消滅するその時、私はむしろ自分の身の中で何か“しみ”の様なものできて、それが全身に広がって満たされて、血液が透明になるような感覚に充たされた。
充ち足りた幸福感のようなものが宿り、それが身になじむまでぼうぜんと突っ立っていた。本当に不思議だった。もはや悲しみとか、不安とか、淋しさとか、そういうものは溶けてしまって全くない。みんな悲しんでいる。息をのんで最後の光景を見守っていた。私にはそんな感慨がまるでわかない。こんなのは形式的な手続きに過ぎない。この世の常識で言えば確かに先生は死んだし、法的な手続きもして戸籍から抹消し、肉体も焼いて灰と骨のみにしてしまう。それがどうした、という気持ちだ。「私たちの心に生きてます」と涙ながらに語るシーンが映画の類でよく見られるが、実際そうなんだから、ほんとに悲しみ自体も蒸発してる。
実際のところ先生の魂は私たちの肉体に入り込んできてくださったわけで、私たち一人一人が例外なく先生の現し身になっただけのこと。先生が個人として存在していたときよりももっと身近というか、一つになってしまったのだからむしろ充ち足りた気になって当然ではないか。
もうこれで充分だった。骨のかけらも持ち帰りたいと思っていたが、もういい。ちょうど出勤時間に差し掛かっていたので、あとのことはOやIさんに任せて、私はその場を辞した。
2026年(令和8年)の本莊です。この後もまだまだ上原先生関連の記事が膨大な量続きますが、もう息切れしてきました。
上原先生のご命日は
1996(平成8)年4月11日
今年の上原忌はちょうど30年目で
2026(令和8)年4月11日
まるで韻を踏んだような取り合わせです。
このタイミングで、図らずも当時の日記を読み返すことになるとは思っていませんでした。これも何かの兆(しるし)なのかと、勝手に思っています。