原爆について(16,8,6追記)

広島で被爆された先生からは、当時の話を時折伺いました。その中の一部をご紹介します。

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やられて、すぐに立ち上がって防空壕に行こうとするでしょ、その時、防空壕に蜘蛛の巣がはってあってそれを払ってそこに入った。それをしたのをよく覚えていたんだね。
 原爆は蜘蛛の巣すら払えなかったんだよ。(平成六年合宿)


人間の感覚なんていい加減よ。・・・原爆にあって、やっとの思いで防空壕へ歩いていったわけさ・・・そうしたら一人のおじいさんがいて、背中のところの服が燃えてるのよ・・・でもじいさんは火がついて燃えているのが分かんないで平然としているのね。だから僕が言ってやったのよ「じいさん、背中が燃えているよ」って。そしたらじいさんが僕の方をみながら「あんたもでっせ」って・・・。で、足を見たら僕の足にも火がついてて足が炭のようになってるの・・・。でも言われるまで火がついているのも全く気がつかなかった・・・・。

それで火を消してちょっとしたら、そのじいさんが小さな声で「いてっ」って言ったのね。それを聞いた瞬間僕にも痛覚がよみがえってきて、足に激痛を感じるようになった。(中略)

最後まで戻らなかったのが嗅覚ね。(月例会 次期不明)




意識不明が続いて・・・意識が戻ってから何日かしたある日、ものすごく臭いのよ。何だろうこの匂いはと思っておふくろに聞いたら「今までこの匂いが分からなかったの!」ってビックリしてた。僕の体から出ている匂いだったのね。・・・

人間って不思議だよ。嗅覚がないと汚いものも汚いって感じなくなるんだから。(月例会 次期不明)







 (平成5年合宿研究授業『イメージの停滞からの脱出・イメージの再出発  時間・空間の拡大化とイマジネーションの転換  』にて。六年生の児童に対して)
*始めのお話
 ・・・「井の中の蛙」という諺知ってるでしょう。・・・人間というものはなかなか今住んでいる場所、今住んでいる時間、そういうものがなかなか分からない。そこから外に出た時に初めて分かる、というようなことなんですよね。
 (『意識の転換』と板書)
 意識を持っている、この意識が転換する。がらっと変わる。そういうのを『意識の転換』という。
 今日の授業をやって意識の転換が出来る様になるかならないか・・・こういうことを今日はやってもらおうと思っている。・・・
 おじさんの体でもって、おじさん自身が体験したことで、意識の転換を起こさないわけにはいかない事にぶつかったの。それを少しお話しますね。・・・
 (原爆の体験談)
 ・・・おじさんは広島の駅へ向かいました。切符を買うために駅へ入る五~六メートル手前でした。・・・この時にドンだね。そしておじさんは倒れたというよりも倒れなくちゃいけないと思って身体を防いだ。 ところがその時おじさんの意識は、日常君達が今、君達の意識が普通に働いていると思うけれども、普通の状態ではなくなった。逆上というのわかる?気分が逆上してしまう。あるいは興奮してしまう。上がってしまうわけだ。普通の状態でなくなってしまう。意識が。転換を起こし始める。

 今、甲子園野球やっているね。初めて甲子園に行くとピッチャーが上がっちゃって、どこに投げていいのか分からないというような状態、時々起こす。・・・原爆でやられるんだから、当然逆上して訳分からないという状態になる。

・・・おじさんはもはや広島の駅に切符を買いに行ってるなんてケロッと忘れてしまっている。そしてそこが広島の駅前であるということも分からなくなった。なぜ分からなくなるかというとねそれは道が道でなくなる。道がつぶれたから。・・・建物は壊れてしまって、だから当然広島の駅はそこにあると思っても見えない。・・・今乗ってきた市電は既に倒れている。横になっている。そうすると大変なことが起こったということすらも分からない。人間というのは。

 この場所が広島の駅前だという認識ができない。今君達は北東小学校のこの教室に今いると思っている。だけども次の瞬間に君達は「ここどこ?」ということが起こりうるんだよ。今、丁度四十一分。君達は四十二分にもここにこうしているって思ってるだろうけれども、今ここで原爆が一発、バンといったらここにいることすらわからなくなる。そういう体験をおじさんは持った。

 もう一つ言っておこう。自分のとなり、見て御覧。その人は男の人であるか?女の人であるか?わかるだろ。原爆が一発落ちたら分からなくなっちゃう。・・・怪物の中にいるようなもんだよ。自分の顔だけ見られないから自分だけ人間の顔だと思っている。ところが回りはみんな怪物なんだね。そういう状態が起こった。だから、まとめるよ、最後に。

 人間の意識はなんという頼りないものだろう、とおじさんは思った。ここが広島の駅前であるということすらもわからない。隣にいるのが男か女かそれすらもわからない。こんな状態になりうる。

 人間の意識って何が本物なのだろう、とその時考えた。

 今日、君達にはこれから『意識の転換』ということを勉強してもらう。じゃ、先生かわるからね。
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先生はよく

「人間っていうのはおろかなものだよ。だからさ、原爆がいかに恐ろしいかとか、どんなに悲惨だ、なんていうことを伝えたってだめだよ・・・。

それよりも伝えなければならないことは・・・・・」

この「・・・・」の部分を正確に記録したものがどこかへいってしまったのですが、たしか「そうした愚かな状況の中でも人間が失わなかったもの」というような話だったと思います。それであまり生々しい内容の話は今回は載せませんでした。



*H16,8,6 ・ H21,8,6 追記

それよりも伝えなければならないことは・・・・・」という事の一つについて、先生の執筆した私小説ふうの小説「忘れ水物語」の追記にありました。
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   追い書き
 いざ出版するとなると、この作品の性根のようなものからいって、そうすることが適当であるのかどうか迷ってしまう。

 深くて長い。それでいて、明暗の分かたれぬ以前の薄明と沈闇の、未発の状態でいることが。いまだに正しいように思えてしまう。

 原爆のことを書こうと思ったのは、その傷跡がまだ傷跡とも固まらぬ頃であった。正しくは、書こうなどという意志からよりも、興奮のうわごとを書きつけていたというべきであった。

 そして、その頃、二つの作品を見て、以後、私は筆を折った。
 映画”原爆の子”と、丸木夫妻の”原爆の図”であった。

 世評はいずれも大反響があったが、私は、映画では身震いするほどの嫌悪感を抱き、絵画の前には不思議に素直になれた。人間が破壊されているのに、破壊されない人間が、破壊された扮装をすることに憤りさえ思ったのを忘れない。これ以上の凌辱があるだろうかと思い。人間の愚かしさをつくづく思った。それに較べて、丸木氏が、木炭画を採択し、しかも赤ん坊だけは、無傷の儘に画かれたことに思わず息をのんだ。書かねぱならぬこと、後世に伝えねぱならぬことは、事実よりも、その事実に遭遇した人々の想念なのだ、と自覚させられた。ただし、そのような筆の持ち合わせが、私にあろうはずはなかった。


 折しも、原民喜が、原爆はカタカナでなければ書けぬと言った。私はいまでも、名言であり、箴言だと思っている。

 以後、馬齢を重ねて四十余年、その間、肺癌にも罹り、いくらか人間の業のようなものが見えてきたといったら、生命冥加を知らぬ奴めがと、またまた死神を刺激することになるであろうか。

 しかし、人は、生まれ変わり死に変わりすることが、生命の存続であると知ったからには、書き残さねばならぬことは、その凄絶さではなかった。その修羅ぶりでもなかった。

 そんな時、ふと、巻首に掲げた和歌が、その思いをまとめてくれたのである。

  -別れぬるあしたの原の忘れ水
    行くかたしらぬわがこころかなー

 木作品が、自伝的であり、私小説ふうたのは、決して意図したことではない。ただ、思いに従うことによってのみ、別れても、別れ離れることのない昨日があしたに続いていることに気付かせられたことによる。

 忘れても忘れ得ざるわがこころの秘めごとを、私は素直に書き綴ればよいのだ、と思った。それは一口に言って、幼な心に通う。なぜ、人は子守り唄を唄って、幼な子を寝かしつけるのであろう。なぜ、その眠らせ歌が子守りであるのか。子守り唄には時代かない。また、場所も特定ではない。むしろ時間を捨て、特定場所から遊離することによって。幼な子は夢の中に安らぎを得ることを、人は承知しているにちがいない。


 八月六日、午前八時十五分、私は、広島駅頭に在った。しかし、その時、その場所を、私の知覚は見失った。意識を失ったわけではない。一瞬のうちに、人を包んでいる環境が様変わりするとどうなるか、人は立っている位置すらが分からない。いつ、どこで、何を、のすべてが断絶されて。ここを確定することが出釆ない。建物は建っていて普通であり、戸外であれば、人は歩いていて普通だのに、その普通がなかった。また、爆撃なら、爆撃による破康の過程を見て、人はそう認融し、人の死傷も、傷つき倒れる過程を見て、悲惨の情が喚起されるのに、その過程がなかった。私が習い憶えた知覚の中には、その光景を読み解く能力はなかった。

 この時、私は助けを呼ぶ声を耳にしていない。なぜか。被害の意識が持てるのは、非被害部分を見出した者だけに限られる。

 人は、ただ、うめき、泣いた。いや、ただうめき泣いている物が、どうにか、人であった。
 修羅の巷に、焼け爛れ、腐乱した五体を遺棄して、魂は既に拉致されていた。遠い遥かな妣の国に旅立ちしたかのように、在りし日の記憶が、求めもしないのによみがえった。

 ひょっとすると、死神の招きにあっているからこうなのではないかと思わぬでもなかった。しかし、そんな思いよりも、次々とあらわれる在りし日の在りし姿の方が、私を魅きつけて離さなかった。

 いまでも思う。あの最中、私は左手の甲の異様に膨れ上がったのを、焼けなかった方の右手の平で押しつけ、膿汁をしぽり出していた。そのことを、全く平然と無感動に行い得たのは、ひたすらに妄想の中にあったからではなかっただろうか。現代人は、それを妄想という。

しかし、私たち先祖の人々は、それをよみがえりと言った。よみがえりを死からの蘇生などというのは、現代人の錯誤である。よみがえりとは、果たして過去の記憶の再生をいう言葉であるかどうかを、私は疑う。私にとって、決してそれは妄想ではなかった。また断じて過去ではなかった。もし、魂という言葉が使えるならぱ、魂それ自体に働きがあって、未生に帰る作用のあるのを、よみがえりと人は曾ってそう実感していたのにちがいない。

 私はひたすらに、懐郷心にかられていた。人がかく生きたということは、この懐郷心からの遠ざかりをいうのであろうか。人の生命には終焉がある。その終焉があるから、刀折れ矢尽きるが如き生き方を人はかく生きたというのであろうか。その終焉の折に、人は振り返って思う過去の時間が人生だとしたら、あのひたすらな限りない懐那心は一体何であるのか。たとえ、それが死に近い生命体の末期現象だと言われようとも、私にとって、あれは、決して終焉どころか始まりであった気がする。


 原子爆弾とは誰が名付けたのか、私は知らない。私だけがではない。原子とは何かを説明出来る人は、専門家以外、そう多いとも思えない。私は音の似通いからばかりではなく、原子に原始を思ってしまう。原子爆弾は、人間を原始に返してしまう爆弾であった。それは人間にとって瞋恚と悔恨との咒符にはちがいないが、それ以上に、逃がれられぬ咒詛の中にしか生きられないことを思わせられた。
   昭和六十二年原爆の日を前に
                            上原輝男