ささやかな広がりでもやがて・・・ 心意伝承は確かに存在する
駿煌会ネーム 虚空
ここしばらく、ある中学生と上原先生の発想を中心に神話、民俗学、さらには数学や自然科学などを大胆に積極的に結び付けながら語り合う機会を持つことができています。
その中学生が知識というよりは、自分の実感やイメージからキャッチしたことをノートなどに書いてくる→そこから想起される上原先生などの視点を紹介する→さらに広がり深まる
そんな繰り返しです。
その中でよくあるのが、私が紹介した事柄に対して「それって前に書いてました」と小学生の頃から書き留めているという膨大な量の中からすぐにみつけだし、示してくれる、というやりとりです。
「知識を得たから」ではなく、それこそ先験的に知識に先立ってキャッチしたことを書き留めている。何かの情報をえて、それをネットで調べて書き留める、というのとは全く違っています。
それはまさに上原先生が生涯追い続けた「心意伝承」の証ではないかと思われるのです。
つい最近は「遊び」ということが話題になりました。
将来執筆予定だということで小学生の時から延々と書き留めている漫画の原案としてのメモを通してのやりとりです。
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注釈)遊ぶ楽しさに目覚めたとき(最初の 遊んで と 最後のお願いとしての 遊んで は内容がちがうということです)
「私はただママとパパで遊びたいだけなんだ。
(遊んでもらえない)じゃあ私の最後のお願い
私と遊んで」
父「喜んで」
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虚空 ここでいう遊びってどういう感じの遊びなの?
K 子どもがたわむれる遊びです。
最後の遊んでは・・・・未来をかえる遊んで。
虚空 「遊び」と「未来をかえる」ってどういう風につながってるの
K この子はわかっていたんですよ。
決められた運命はかえることができないと。
その少女にとっての遊びは未来をかえること・・・だからお父さんと最後に遊んで って
たとえば積木で遊ぶ・・・・未来をかえるっていうのは積木で世界を作る、っていうような・・・
それが未来をかえること
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(再び設定メモ)
そんな遊びを少女は何百年、何千年とできないでいた。
それで無の感情になった。
その子はまた新しい遊びを求めた
それが未来をかえる遊び
参考 別のページのメモ
神:物語を創り出すことができるのはこの世界にいない神だけ
(この世界=現実)
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このあと、上原先生語録から「遊び」に関する部分を紹介しました。
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*『遊び』は本来、神とたわむれる事。神の世界にどっぷりとつからせる。 平成元年六月例会)
*子ども達を迷わせてはいけない。本来の姿にもどしてやる。そうして自分のイメージを確認すれば十分一人で遊べる。・・・自分の世界を作り囲いに入れるから。 (平成六年新年会)
*「能力で何かしよう。」ではなく『持っている能力で遊ぼう。』とさせる。
好き勝手な事をしないと本当の能力は出てこない。 (平成二年十月例会)
*郡司先生のいう『遊び心』と『子ども心』、それと藤岡先生のいう『最も根源的なイメージの追及』の接点、関連を考えたい。郡司先生は「これが失われるから人間は年をとると寂しくなる。」なんて言っているけど、自分を生かしめているのは『幼い頃の遊び心』なんでしょうね・・・。 (平成三年二月例会)
*遊び場所とは『理想郷』であり『神のいつく場』と考えた方がいい。神の領域に近付くこと。
平成二年十月例会)
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このような調子で、「感情はエネルギー」「生命の発露」「トランスフォーメーション」等々に関することなd様々な項目に関して、やりとりが続いています。
中学生と語り合っているというよりも、上原輝男の門下生と共に探究活動をしているような感覚になる・・・駿煌会の若者メンバーたちが難波先生も交えて語り合っているのと同じような空気感です。
生前の上原先生を知らない世代が圧倒的になる中で、今でも先生がご存命であるような感覚で若い人達と語り合える・・・・こんな輪がどんどん広がれば・・・なんて思っています。
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☆追伸
今回の「遊び」の話題から、今の世代の 遊びの中心である ゲーム、さらには漫画やアニメで余暇をすごすことが 本来の遊びの姿からみてどうなのだろう という話にもなりました。
例えばゲームでも、ストーリーもの を通して、人生や異世界をふくめての様々な世界について関心をもち、自分なりに考えているッ若者も大勢います。
その一方で、同じゲームであっても、互いに攻撃しあって闘争本能だけを剥き出しにするものや、それこそ余暇も含めて現実生活に活かすのではなく、依存症状態になってしまっている若者も大勢います。
遊びの「質」の問題です。
ただ、頭ごなしにその是非を押し付けても意味はないと感じています。
素朴に感じるのは、やはり今の若者たちが ナマの言葉のやりとり である 対話 の経験が絶対的に不足しているということです。
やりとりはメールやラインでの超短文や記号化された文字ばかりとか。
おしゃべりをしても率直に自分の考えを出し合うのではなくて、一部のムードメーカーの子に合わせて、その子たちのご機嫌をそこなわないように最新の注意をはらいながら、同じ考えだと演じ続けている。
そうした対人関係に疲れ切った結果、人とのやりとりは 面倒くさい 苦痛・・・となって独りの世界に没入してしまう。
同じ自分の世界に浸って時間をすごしているようで、よりピュアになっていくのではなくて、他人によってつくられた世界に依存するだけの状態に陥っていく。
それでは本当の意味で想像を広げる 想いを巡らせる 無意識の世界の自分と交信する・・・・という人間の精神生活の面白さ、楽しさをしらないまま大人になってしまっている。
そんな気がするんですよね。
学習に対しての意欲・知的好奇心の極端な低下もそんな対人関係意識とかなわりが深いと思っています。
→でも人間である以上、やはりそれは捨てられない。それが端的に表れているのが、動画サイト等々に没入する姿ではないでしょうか。