教育・人間関係等々を見つめ直す 「縁」から「結び」へ
~夫婦(みょうと)・師弟関係 から考える~
振り返ってみれば上原先生との出会いは運命的だったと思わざるをえません。
玉川大学入学式の翌日、初めて受けた大学の講義が上原先生の文学でした。(1年次必修)
私は最前列の教卓の前に座っていました。
そこに現れたのが上原先生。
でも教室内は普通に私語がとびかっていました。
「講義をはじめる」
とおごそかな第一声
それでも何事もなかったかのように私語は続きました。
先生はもう一度
「講義をはじめる」
ものすごく圧倒された出会いでした。これが大学の先生なのかと。
講義の内容は、私の父もライフワークにしていた「古事記」そこにまず運命的なものを感じました。
そして後に、私が幼児期から夢中になってみていたウルトラマンシリーズの生みの親と言われている金城哲夫氏が上原先生の愛弟子であり、高等部時代の先生の授業の内容(折口学のまれびと論)がウルトラマンの発想の原点だったということを知り、さらに運命的な出会いという想いを抱きました。
こうした「縁」って考えれば考えるほど不思議なものです。
出会い・めぐり逢い・・・「袖すりあうも他生の縁」なんて言う言葉も日本人はもっていますね。
そう考えると縁そのものは毎日が縁あっての出会いだらけともいえます。
そうしたたくさんの縁の中で、特別に深まる関係 「結び」 に至るものはごく一部になるわけです。
たまたま明日(4月12日)、私の教え子が結婚式をあげるのですが、フト思い出したのが上原先生が かぶき十話 妹背山女庭訓についてのところで書かれていた文章です。
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P220
雛祭りは「神婚説話」の投影である
私に言わすれば、日本人は結婚というものをどんなふうに考えていたか、その基本的な考え方が「神 婚説話」だというべきだと思う。われわれは何でもかんでも辞書的に知りたいとしすぎて来てしまっ た。少なくとも、伝統的な日本人の結婚観は、神様が寄りついて婚儀が成立するんだと、どこかで思 っていたのだ。またこのことは、「神婚説話」という、日本人の全く底辺というか深層に流れている 考え方は、今日なおかつ死んではいないのである。なぜか。それは雛祭りをやっている限りそう言わ ねばならない。雛祭りは、あれは神婿、神様のご婚儀の崩れた姿であり、見真似であったと、こう考 えられるからである。
雛祭りで最も大事なのは女雛、男雛である。女雛、男雄のお祭りをするのだということである。子 供が誕生して初節旬からこの結婚式の真似事をやらせているわけだから、これは大変なものである。 特にそれを男の節句としないで女の節句としてやってきたあたりが、日本人の深層心理の中に秘めら れた何かがあると私には思える。雛祭りは女雛男雛を飾るところを重要視したい。あとの五人囃子だ とか三人官女だとかいうのは、付け足しで結構だということだが、女雛男雛という呼び方も忘れては ならない。つまり、雌雄の合体を言っているからである。
結局、この「山の段」(川場)は可憐にして壮絶としか言いようのない結末に終わる。文字通り雛 飾りした嫁入り道具は雛流しすることによって、嫁入りは同時に葬礼となるのである。
蛇足だが、私は、また今月も二つの結婚式に行かなくてはならない。結婚式のたび毎に言うのでも ないが、祝辞がわりによく口にすることは、あなたたちのことを世間では新郎新婦と言うが、そして きょうは結婚でおめでたいと、みんながそのために祝いに来ているんだけれども、一体何を祝ってい いのかわからなくなっているのが現代人だから、その点をしっかり考えろと。あなたたちはきょうか ら夫婦(みょうと)になるのだ。夫婦(みょうと)というのは、女(め)と男(お)である。それが日本語の夫婦(みょうと)だと。
世の中にはたくさん 女と男がいるんだけれども、そうではなくて、こちらの男性はあなたを選んで、あなたを女性だと思い、こちらの女性はあなたを見てこの人が私にとっての男性だと思う。互いにその男、その女の組み 合わせによってのみ、雌雄の合体を確認するのである。それを日本人は夫婦と言ってきた。この夫婦 という言い方はすばらしいではないか、と告げることをする。
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ちなみに私は還暦すぎて数年ですが、こうした縁は一度もなく生きてきました。
かわりに沢山あったのが 教え子たち との縁です。
小学校勤務、その後の家庭教師生活。フリースクール支援員・・・・また教え子というのとはちょっと違いますが、就労支援施設のグループワーク講師を通して知り合った利用者さん達・・・・
特に小学校退職以降は、この夫婦の話の後半にある 「世の中にはたくさん 女と男がいるんだけれども・・・」の部分を重ね合って感じられます。「夫婦」を「師弟」と置き換えての発想です。
小学校の時は公立学校でしたから、生徒たちとの関りは縁あってのめぐり逢いそのものといえました。
でもそれ以降、家庭教師などでは、特に相手に出合いの主導権がにぎられています。
どんなに私の方で関りを大切にしたいと思っても、お試しの段階で断られる、数回で断られるというのは普通でした。
そしてまた大半は受験等々が終ればそれっきりです。
でもその中に社会人になっても何十年もずっとやりとりをさせて頂いている方々もいます。縁あっての教え子は大勢いますが、今でもかかわりあってくださっているという教え子はごくごく一部に限られます。
そのつながりは何ら強制力もない全くの自由意志。
学生時代、上原先生の場合も必修ではない選択の場合はやはり自由意志だったわけです。大学4年の時には一度3年の時に単位をとった国語教材研究にもう一度参加しましたし。ましてや大学を卒業した後も、先生が主宰する研究会に参加し、師弟関係を持ち続けたとうのは私の主体的判断からでした。
そういう意味では 仕組みとしての強制力がない分、学びの質は大きく違っていたと思います。単に知識・技能を習得ということ以上の深いつながり。
それは上原先生が特に注目していた江戸時代の庶民生活での教育システムとも通じるものを感じます。
明治になって西洋式の学校教育システムが導入されて以降、ずっと公立学校の形が続いてきたわけです。
ものすごく大雑把な言い方をすれば、戦後をむかえるまでは軍国主義的な発想の国民を一律に育成するため。
そして戦後、特に高度経済成長の時代は、優れた工業製品を大量生産するためのオートメーション工場のような発想での学校教育・・・能率的に期待する国民を大量生産するには都合のよいシステムだったのでしょう。
でももともとは農耕民族の発想だった日本人にとって、そうしたスタイルは不自然だったともいえます。例えて言えば、それぞれの作物にとって最適な育て方があるのがあたりまえ、という考え方から、ある特定の作物だけに価値がある、その作物の育て方を他の作物でも強制的にとりいれよう、というようなものですから。
ちなみに上原先生は農業の発想が教育にはとても大切だということを減給されています。
そうした不自然さを感じとって、日本人の生活感覚にまで根ざした教育を再確認しようという動きは明治以降の教育の歴史の中で何度もあったわけですね。
大正時代の新教育運動の流れをうけての玉川学園も創立者の理念としては 寺子屋教育 を掲げ、松下村塾 のようなスタイルを理想としてきた・・・・上原先生も古来からの日本人の教育がどのように行われてきたのか、という研究のながれの中で江戸庶民の教育についての言及は多々ありました。
昭和の後半、詰め込み教育の弊害が表面化し「ゆとり教育」へと舵をきったものの、やはりそれでは競争社会は生き残れないということになり、平成半ば以降「競争原理」「成果主義」に一気に突っ走った教育界。
その結果教師は上原先生の大切にした「教育者」という位置づけではなく、中身はどんなにカラッポでもいいから、みかけだけの点数をとらせるティーチングマシンのような先生が期待されました。大学などでも教師の担い手不足から、人間を育てる教育者としての養成ではなく、学習指導の訓練や教員採用試験の対策学習にばかり特化したところが増えました。
が、ここ数年、それの反動もあってか、それぞれ自由が主張されるようになり、従来の学校教育システムでは対応しきれない部分が次々と表面化しています。年々増加する不登校児などもその一つの表われなのでしょう。
学校不信 教師不信・・・そして社会や生活の中で人間関係がどんどん希薄になる中、かつては生徒思いで熱心だと言われたような先生が「ウザイ」と煙たがられる傾向が強まっています。理不尽なパワハラではなく、本当にその子の魂に訴えかけようと真剣に向かい合ってのことであって「パワハラ」として断罪される世の中。今や集団生活の中で普通にわきまえるべきことを注意してもたたかれるのが学校・教師。そのくせ、子どもが起こしたすべての責任をとらされるのも学校。
人間関係が面倒くさい、他人への気配りなどしないで好き放題生きていきたい と少なからぬ親達も思う世の中です。でもその一方で他人には自分たちにもっと気をくばって期待する通りに振舞えと当然のように要求する。
かつて「お互い様」といって尊重し合った、許し合えた人間関係もガラガラと崩壊。
従来のような 家族・地域・師弟 などの人間関係などはどんどん消えています。
寺子屋教育も弟子入りでの職人教育も住み込みの奉公も、「いろいろある中からの選んでの出会いを結びつきに」という点では共通しているものがあります。
こうした関係も夫婦関係があらたな家族を共に創り上げていこうとする下地となり、そこに新しく家族が生まれ結びつきの強さが成長後の人生も支えていくという流れとワンセットなんだろうと思うんですよね。
上原先生も重視されていた歌舞伎の演目に「菅原伝授手習鑑」というのがあります。中でも特に重視していたのが「寺子屋」
「教育学科の学生はきちんとみておく必要がありますよ。 手習 とか 寺子屋 なんていう言葉がはいっているんですから」
その寺子屋の中に師匠のこんなセリフがあります。
「弟子子といへば我が子も同然」
寺子屋に入門するというのは、現代社会の 塾 に入るというのとは全く次元の違うことだった・・・人間の成長そのものに互いに一生関わり合うというのが師弟関係を結ぶということだったともいえましょう。
お互いにそうした覚悟の上で弟子入りを志願し、弟子として受け入れた。
単に知識・技能の伝達に終始して、期間が過ぎたら はいサヨウナラ ではなかったわけです。
夫婦関係になることを「契りを結ぶ」ともいいますが、日本古来の発想がこの「結び」であったこともいろんな学者によって指摘されている事です。紐を結ぶ際の固結びを思いうかべればわかると思いますが、引き離そうと強くひっぱるほど、結びつきが固くなる・・・そういう発想なわけです。
しかもその契りを結ぶという誓いを 神前 で 神に誓う という形で行った。
上原先生の国文学の講義では、説経集「かるかや」で仏門に入る際の 誓文 について語られました。
仏門に入ることを願い出てきたお上人様が、こう答える場面があります。(現代語訳で紹介します)
「(お前が誓いをやぶってまた俗世界へ戻ると)仏門に入る事を許して剃髪した私も、仏門に入ることを許されたお前も、共に阿鼻地獄・叫喚地獄に堕ちる事になるのだぞ」
師弟関係を結ぶということの究極にはこうした心象があったということなのでしょう。
ティーチングマシンどころではないわけです、師匠の側にとっても。相互に運命を委ね合う関りです。
そうした意識があるからこそ 庶民教育の主要な場であった 寺子屋 に「寺」という言葉がくっついているのではないでしょうか。単に寺が学びの場、教師役を僧侶がつとめた、というような意味合いだけではなくて。
縁あって昨年度から市内の公立中学校に設置されたフリースクールの支援員として中学生たちとの関りをもっています。
私の意識としては、教室に戻れるようにするための補助機関というだけではなく、むしろ江戸時代の寺子屋に近いものであり、今後の教育の方向性を考えていく上で大切な場なのではないかというイメージを抱いています。
不登校の生徒といっても、学校に設置されているフリースクールということなので、「学校」という場には頻度の差こそあれ、顔を出しているわけです。
これは全くの自由意志で、毎日来る子もいれば月に数回の子もいます。来る時間も帰る時間も自己決定です。定期テストなどを受けるかどうかさえも本人の判断にゆだねられています。
市の教育事業として学校に設置されているフリースクールではありますが、教室復帰が最終目標とはされていません。生徒たちの主体性を育てるのが最重点。それぞれの子の今の想いに応じて、教室復帰を目指す子、フリースクールの教室で自らの学びを大切にする子、それぞれが認められているのです。
学校の専任の教職員と支援員の私とが常駐しているのですが、我々とどう関わるのかも生徒たちの自由意志にほとんどまkされています。
「学校」という場にありながら、異世界 であるというのがフリースクールなんです。
学校教育が再び大きな岐路にたたされていると言われている現代において、江戸時代などの寺子屋教育の師弟関係の発想に、学校教育のシステムも組み込む時期に来ているのではないか、という気がしています。
さらにいえば、人間社会そのものの再構築のために、家族の最小単位の一つである婚姻における古来からの発想を見つめ直す時期にきているのだと考えています。
参考 「夫婦の契りを結ぶ」 上原先生の講義録より
・「夫婦は二世」っていうのは知ってる?・・・
「偕老同穴(かいろうどうけつ)」っていうのは知ってる?よく結婚式なんかで「偕老同穴」って・・・。「偕に老いて同じ穴にはいらん」って。だから夫婦は偕老同穴の契りを結ぶんだって言われる。死んでからも一緒なのよ、夫婦っていうのは。それを二世を契るって。二世っていうのは「この世とあの世と」って・・・「この世とあの世と一緒なんだよ、夫婦っていうのは」って。
国文学講義(1) 昭和59年10月1日