呪術としての名付け
本莊雅一
岡野玲子作の漫画『陰陽師』で、安倍晴明が「人の名はこの世で最も短い『呪(シュ)』なのだ」と言う場面がありました。なるほど、日本に限らず伝統文化が濃厚に残っている社会では、やたらと自分の本名を他人に知らせないしきたりがありますし、「名刺」も本来はやたらとばらまくものではないという考えも聞いたことがあります。
自分の名を知らせるのは、相手が自分に「呪」をかけることを許容することになるのでしょう。それが「祝福」と言い換えてもよいような「呪」ばかりとは限りません。現在NHK大河ドラマで放映中の『光る君へ』でも、「道長」と記した木製の人形(ひとがた)に呪文を唱えながら刃物で切り付ける藤原伊周に見られるように、怨念を込められることもあるわけです。
「名」が自分にかけられた「呪」であることは、もっと意識していいことかもしれません。
上原先生がお弟子さんの子供に名づけをしたり、しようとしたエピソードをいくつか聞いたことがあります。私の子供も実際に名付けてもらいました。名づけとは呪術行為なのだいうことがよくわかる話ばかりでした。いくつか思い出しました。
ある女の赤ちゃんに「若音(わかね)」と名付けた時は、素晴らしい名と喜ばれたそうですが、その子は夭折されたそうです。上原先生にとっても痛恨というか、衝撃だったようで、疑いなく自分の責任として話してくださいました。
「強そうな名を」と請われてある男の子に「権(ゴン)」の名を提示した時は、ご両親は大喜びしたそうですが、ご祖母様からは「こわい」と反対され、結局反故になったそうです。歌舞伎「暫(しばらく)」のシテ「鎌倉権五郎景正(かまくらごんごろうかげまさ)」からとったそうなので、そのおばあさんの感覚は正鵠を射たものと言えましょう。なにしろ後三年の役で右目を射られながらも奮戦した18歳の若き豪傑です。荒ぶる御霊(ごりょう)のような「呪」がかかるのは間違いないでしょう。
私の息子には「ありう」という音をくださいました。「在右」と当て字します。「右に出る者はいない、の、その右に在る者のことだ」と解説してくださいましたが、「大事なのは音だ」といつもの持論を強調されていました。私としては、何かの呼吸音みたいなものなのだろうなと思っていました。
その2年後に、ご生前最後の著作刊行物となった『日本人の心をほどくかぶき十話』を読んで、あながち間違いでもないと分かりました。歌舞伎『勧進帳』の中で、富樫に請われて舞を舞う弁慶が「萬歳ましませ、萬歳ましませ、巌の上に亀は棲むなり、ありうどんどう」と歌います。これは「延年の舞」で、上原先生は「延年の若音(わかね)」をあげることが目的だと指摘されました(p277)。つまり「ありう」とは、「若音」と呼ばれる音そのものの擬音語というわけです。その「呪」のおかげか、いい年していつまでもガキなのですが…
上原先生の子供の出産予定日は8月6日だったとか。ご自身が経験された広島原爆投下の日です。因縁というか、そのようなめぐりあわせに打たれた先生は、焦土から立ち上がる生命イメージに導かれるように「カビヌ」という音をとらえました。「カ」にどのような字を当てる話だったかは、よく覚えていません。「鹿」だったかもしれません。「ビヌ」は「火野」だったかと記憶しています。うろ覚えで済みませんが、「鹿火野(カビヌ)」。まだ男か女かもわからないし、どちらであってもつけられる名かと思います。
ところが、実際の出産は8月6日ではない、別の日にずれたそうです。それで先生は「カビヌ」をやめて、別の名にしたそうです。
8月6日に生まれても、別の日に生まれても、生まれてくる個体は同じ人間です、生物的には。でも、確かに「カビヌ」と名付けられた人と、別の名をつけられた現在ご存命のご子息とは、別の存在であろうな、とも思います。ことなる「呪」をかけられるわけですから。
「カビヌ」は幻の存在ですが、圧倒的な存在感をもって私の中には息づいています。
いつか、8月6日生まれの「カビヌ」さんが現れたら、上原先生の生まれ変わりだと信じ込もうと思います。これは幻ではなく、夢でありましょう。
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*編集部 補足
カビヌは「夏火野」 と表記していたという記録も別にあります