日本中世の庶民教育  昭和59年 説経集を教材とした国文学講義より

昭和59年 説経集を教材として行われた「国文学」の講義からの抜粋です。
いわゆる従来の学校教育に対して限界がささやかれている現代社会。
私は学校教育を否定する立場ではないですが、「人間を育てる」という本来の目標が形骸化してしまっていることが多い、とうのは事実だと感じています。

コロナ以降、、ますます学校教育の制度自身も問い直される必用に迫られていますし。

「学びの場」の多様性を考える上で、上原先生の「国文学」の講義は大切なことを示唆してくれていると感じています。その最も端的な部分がここです。

学校でも職場でも社会でも「今の自分の思い通りになりさえすればいい」「他人を気遣って我慢するなんて馬鹿げている」という風潮がどんどん強くなり、互いに潰し合いの方向に流れているようにもみえる現代社会においては、上原先生の説いている 古くからの日本人の考え方 などは 時代錯誤もはなはだしい ということになるでしょうね。

でも、本当に単なる時代錯誤で片付けていいのか・・・

教育制度をどうすべきか、という以前の「個々の幸せを超越して、共存共栄の社会を構築する大前提」をきちんと確認するために、これら先生の言葉から素直にみつけなおしてみたいと私は考えているのです。

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☆国文学講義(1)  昭和59年10月1日

*特に私が説経を選んだという理由は昔の人たちは・・・特に江戸時代なんかは寺子屋なんていうのが非常に発達していて、これは世界的な視野においてながめてみても庶民の教育が江戸時代にかなりきわだっていた。

きわだっていたから近代国家に日本は移し替える事が可能だったわけです。

その寺子屋教育が江戸時代後半から今の塾みたいに一杯できた、ということなんですけれどもじゃあそれ以前までの教育はどういう場面で日本では庶民教がなされていたのか?というとそれは宗教の世界と言うことができるんですね。

生活するということと同時に、それは宗教生活をしている。宗教的な雰囲気が非常に強かったんだということです。

で、この説経集を読んでみても特別りっぱな宗教解説がなされているということではありませんけれども、庶民が庶民の為にこういうものができあがっていったわけですから。

ですから、中世の・・・主に中世ですね、中世の庶民がどんな教養を身につけていたか、ということを知る為には非常に大事な書物だと言えるわけです。


*今の人たちは宗教なんていうと特別な何か宗教心を持つことだというように・・・・・・一般生活そのものがこんにちでは割に安定していますので、特別そういうものを持たなくても生活ができるような世の中という風に思い始めていますから、何か宗教生活を一般庶民が持っていたんだなんて言い方をしますと「えー」というような雰囲気でビックリするかもわかりません。

でもむしろその宗教性をなくしては生活ができない。不安があったんでしょうね。こんにちでもそうですよ。

・・・・・・・・現代人の宗教生活がどうあるのが一番いいことなのかということはこれは決して看過して、見過ごしていいことではない。こうなるわけですね。

玉川の全人教育なんかにしたって「全人教育の根本は宗教にある」と言われ続けてきた・・・・・

 マアそういうことで私が諸君に講義の最初に願っておきたいことは、宗教心なり宗教性というのは一体何なのか・・・で、庶民は何にひかれたのか・・・ということの答えを出してみる、というぐらいのつもりで読んで欲しいと思う。



*(神仏習合の話から)
だからこれは宗教観というよりも元々人間にはそうした意識があったと考える。「あの世」があって「この世」があって、それから「先の世」がある・・・「前世」「今生」「来世」・・・「三世」この3つの世界に住み分けているんだ、ってこう考える。こう教えられていたんですよ。

その3つの世界を持っていた。ところがこんにちの現代人はわずかにその3分の1しか持たないんだもん。そんなアホなって・・・いいハズがないじゃないですか。だからこの世界観というものを我々はもう一度見直さないことには、これらの話を読んでいても面白くはないと思うんですよ。

つまりこの三世に渡る話がしてあるんです。もう始めから、のっけからその話なんです。そもそもこのお宮の本地を尋ねる話をいたします、っていうわけでしょ。



☆国文学講義(4)  昭和59年10月22日

仏教なんていうことには諸君らは今まであまり関心を持たなかったろうけれども、もうボツボツもってもらわなけりゃだめだと思う。いろいろと教えてくれる、っていうことなんですよ「ああ、そうだったのか」って。

世界の認識法だって考えればいいんですよ。特に仏教は一番よくできているから、そういうことが。世界認識ということがね。認識法が非常に明確に明瞭にわかる。


☆国文学講義(5)  昭和59年10月29日

*ここに大塔・金堂・御影堂・四社明神ってあるでしょ。(P30)これは当時の、説経の時代の伽藍配置ですね。伽藍配置というのはかんがえてみるといい。あれは何のためにああいう配置をしたか。やっぱり新しい空間設定ですよ。新しい空間設定ということは 世界作り ですよ。


*女性は今度おっかさんになるでしょ。で、家庭をもつでしょ。子ども部屋一つ作るのにもこれが問題ですよ。環境性。それは子どもの世界を作るということなんだから。



☆国文学講義(6)  昭和59年11月5日

・・・・・みなさんはこういうのは宗教心があったからだとかね、そんな風に片付けられると思いますけど、そういうふうに考えなくてもいいんですよ。意識がそうなっているということです。私なんかの子どものじぶんはそれだったんだということ。

あの世って信じていますもの。だからお盆になるとおばあさんが帰ってくるんだな、なんて思っていましたから。その方がずっと楽しいじゃないですか。

それを潰してしまったのが何かと言うと学校教育ですよ。学校の先生が「あの世なんてあるか!」なんて教えるから。みなさんはあの世を信じているかわかりませんが・・。

あのね、何でそういうことをいうかというと、「この世限りだ」といってしまって、何か得をすることがあるのかということですよ。

人間は今が大切だと言ってみたところで、今は終わるんですから。それは哲学者といえども、宗教家といえどもみんな認めているわけでしょ。生はは終わるということを目的にして生きているわけでしょ。

そうだとするとその課題を解かなきゃならんじゃないですか。現代人は解いているか・・・説いていない。解かずして、この世の生が終わって、それから後というのを否定している。そんなことをやってみたってなんにもならんですよ。

昔の人間の方が利口だよ。それだからこの世を 仮の世 としたんでしょ。真実はどちらにあるか、っていったらあの世にあるわけだから。

今は仮の姿である・・・仮に今、我々はこう現れているにすぎないんだと。だから最後には本来のところに戻ろうとしている、ということですよ。


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ここでいう 宗教 とは、国家神道のように国や権力者が国民に強いた宗教ではありません。また特定の宗教・宗派というものともちょっと違います。

現代でも生活のいたるところに残っている 宗教的生活 のこと・・・生活にとけこんでいる宗教です。

子供の世界で考えると、たとえば宮崎駿監督のアニメ「となりのトトロ」などはまさにそうだともいえます。(となりのトトロに関しては 上原先生も生前に絶賛されていました)

昭和のある時期までは教育現場でも日常生活でもよくきかれていた「お天道様はみているよ」「ご先祖様がちゃんと見守ってくれているよ」なども生活に根ざした宗教(感覚)といわるでしょう。

それを見失えば見失うほど、人間は「自己中心で傲慢になり、自然も他人の生活も脅かして当然という生き方になっていってしまうのは、今の社会が照明してくれています。

かつては子供の世界でもあれほど軽蔑された「卑怯者」という感覚もそうですね。勝てばいい、結果を出したもの勝ちで、卑怯なことを大人が率先、子供たちにも「そんな甘い事はいっていられない」と解く時代です。

いくら学校教育で、正論を解いても子供たちには虚しく響くだけ・・・・大人も社会も学校教育にはあれこれと注文はつけますが、実際の行動は真逆なことばかり。

そんな時代だからこそ、上原先生の解かれた 日本人が長い間作咳してきた感覚をきちんと見直すことに大きな意義があると思うんですよね。
 

個人的なことになりますが・・・・
 体を壊して平成8年に小学校を退職。
以来数十年にわたって家庭教師で小学生~社会人
そして数年前からは就労支援施設のグループワーク講師として社会人に。

この9月からは思いがけずに水戸市が本年度から市内の各中学校に設置した不登校の生徒のためのフリースクールの補助員をしています。

そうした様々な場での経験から、これからの多様な教育の場という制度の見直しを私自身摸索中です。