現代に生かす上原輝男先生 ~自然な日本社会の復活~
                    駿煌会 宮田雅智

上原輝男先生没後25年追悼の集い 児童の言語生態研究会
2021年 令和3年11月21日(日)(13:00~16:30)
資料  (一部割愛しています)



 元小学校教諭。平成8年の夏、体調の関係で退職。その後、小学生~高校生、そして大学生・社会人に家庭教師・・・そんな過程を経て、今年還暦を迎えたという節目でもあることから、私の中の「児言態の上原先生」が「現代社会の救世主としての上原先生」と変容していった大きな流れ、そしてこれからの世への提言をきちんとまとめておこうとしたものです。

私なりの実践例や私見もいろいろと書かせて頂きましたが、それらについては読み飛ばして頂いて結構です。でも「上原語録」として紹介している部分には是非目を通して頂きたいと思います。

途中児言態の雑誌や、難波先生発行の国語教育思想研究に掲載の試論が閲覧できる広島大学リポジトリのアドレスを紹介しています。上原先生の言葉を多数紹介しながらの文なので、よろしかったらご覧ください。


また最後にはスペシャル付録として、上原先生の「日本教育史特殊講義」(昭和59年)の第1回、第2回の講義録(抜粋)を掲載しました。
上原先生の根幹をなす「心意伝承」に関しての博士論文「心意伝承の研究 芸能編」についての全体構想や各論の概略について主に語られています。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

1,先生を世に広める上での大きな壁(特に著書の場合)
①自分との接点を見いだしてもらいにくい


************************************
上原語録  かぶき十話 P172
 私は歌舞伎の専門家だというふうに言われるのは好きではない。また歌舞伎ではなくても、おまえは何かの専門家だろうというふうに言われること自体、本当に好きではない。なぜかというと、それは自分にとって最も関心のあることは、日本人とは一体何者なんだろうということである。・・・

 無意識が私をどこかに連れていく。その無意識というものはどこから成立してくるのかということが知りたい、また興味がある。そういうものを心意伝承というのである。だから心意伝承という学問ほど面白いものはない。まだ心意伝承を口にする学者が少ないし、また私どもの業績も乏しいから、世の中がこっちを向いてくれないことも無理ないことだが、本当はもっと心意伝承学をやろうとする人が増えてくれれば、人間の幸、不幸の問題など、簡単に解決するだろうと思っている。・・・・・


**************************************

本当はすべての(日本)人の根源に関わっていることであるにも関わらず、実際には著書名をみただけで教育関係者・民俗学関係者ではない等々の壁を持たれて、著書などは一般の方々には(専門家にさえも?)手にとってさえもらえないとうのが現状です。
 後述しますが、「専門の枠を超える」というのは「まれびと論」との関連においても非常に大切な意味を持つと考えています。



②話題にしている内容のハードルの高さ

********************************
上原語録 曽我の雨・牛若の衣装 -心意伝承の残像-P9 
 本書は 心意伝承 とは何ぞや、という書き方はしなかった。・・・・そういうことよりも、読み進めるにつれて何とはなしに読者の胸にも思いあたるところがある、というような書き方を心掛けた。援軍になってもらうことに望みはなくてもせめてこの学問のおもしろさだけは伝えたい。・・・・

 心意伝承 の研究対象は、研究者だけが知っている対象ではない。一般の庶民が誰でも思い起こせる対象でなけれなならないのである。私はまず 曽我の雨 を取り上げた。その理由は、一般庶民の特殊なる感覚が造成したに違いない成語であるからである。また、一般庶民が忘れても忘れざる遠くて深いイメージがこの語を作り、更には江戸歌舞伎の代表的芸題たらしめたのである。私が本書で述べねばならなかったことは、それがどうして現代にも及ぶ日本人の心の映像であったかを、絵ときするこであった。・・・なぜ日本人はそう伝えたかったのかということであった。

*************************************

現代の多くの人にとっては知らない話題ばかりですね。現代に至っては若い世代に「いなばの白兎って知ってる?」と聞いてもまず知らない。

そしてまた知らないなら知らないで、調べてくれたり、知らないなりに何か自分の中に思い当たることがないかを探ってくれればいいわけですが、多くの場合は「知らない」というだけで拒絶してしまわれます。

特に今の人たちは、小さい頃から絶えず周囲と比較され、評価されてきた結果「知らないことがある」と他に思われることに過剰反応。だから自分の無知が明らかにされてしまうような「知らないこと」には近づかないという警戒心が強いです。

 また同じことに関心のある者同士であっても相手の生半可な部分をみつけて見下す傾向も時にみられます。

しかし「知らない」ということも先の「専門の枠を超えて」と同様に、強力な武器になることがある、という発想に立ってほしいんです。日本人の歴史の中でも、海外の文化とあまり交渉がなかった時代が何度かありましたが、その時代に、日本人としての良き偏向、そして文化交流が開かれた時に、新たな西洋の知識とのシャッフル、それが西洋的な常識をはるかに超える・・・その繰り返しで発展してきたわけですから。

「知らない話題に面白がって向かい合う」という姿勢なくしては、上原先生の著書との壁は容易にはとりはらえません。
現代の子どもや若者が失いがちな「知的好奇心」の旺盛さと、その意義を最も残しているのが、上原先生も注目していた「英才児」なのかもしれません。英才児の姿勢は世間に大いに知ってほしいものです。



③著書を開いてもらえても・・・
 用語や言い回しなどが難解ですよね。著書によっては旧漢字も多様されていますし。
 また、おそらく先生としては結論をそのことだけに限定されたくない、先生の枠で縛りたくない、という意図があったのかもしれませんが、結論の意味するところが序論とどういう風につながるのか、この結論がさらにどのようなこととつながっていくのかがみえにくいです。



☆それらの問題に対して・・・上原語録の作成
そうした著書と比べて月例会や講義、日常でのさりげないやりとり等々、口頭で述べられた言葉には、ハッとさせられるものが非常に多いです。そこで様々な人たちに上原先生と共振・共鳴していただくために語録作成を行っています。それでさらに深く触れたい方は「著書」にあたってくださいというような感じです。




語録作成を思い立ったのが私が体を壊して退職した平成8年。ちょうど先生が亡くなった年。その夏の児言態合宿で宣言したのですが、当時の私は「体調の関係もあるので、教育学者の上原先生と民俗学者の上原先生のうち、教育学者の上原先生の言葉をまとめたいと思います」と話しました。実際に過去のノートなどでリストアップしたのも教育に関りが深いと思われる言葉中心でした。正直いって、児言態の月例会で先生が曽我兄弟の話をはじめると「はやく教育の話をしてくれないかな」という気持ちでいましたし、そういう話はほとんどノートに記録していませんでした。浅はかでした・・・・

上原先生の中では、すべてのことが「日本人を知りたい」という想いによって包まれ、一体であったのに・・・見かけ上別々の分野であっても、内的にはすべてつながっていたのに・・・・ということに家庭教師やエナベルでの実践を通して気づかされました。折口先生の言葉でいえば「類化性能」の力こそがカギをにぎっています。
ただ、体調の関係で語録作成の作業はほとんど進める事ができていません。



☆改めて上原門下生の皆様へのお願
これまでもたびたびお願いしていますが、本当に日常での何気ないやりとりにも重要なヒントが隠れているのが上原先生の言葉です。
何十年たった今でも頭の中に残っている先生の言葉を、是非お寄せください。
こんな言葉はいいだろう、と思わずに。それが意識にひっかかっているということは、きっと何かあるのでしょうから。




2,「小学校国語の上原先生」という枠が外れた家庭教師体験 
中学生になったかつての教え子からの依頼をかわきりに、中学生・小学生やがて高校生・大学生まで相手にするようになったのですが、国語の依頼はほとんどなく、「数学」「理科」「英語」が中心でした。単なるテスト対策ではなく、それらを通してどうしたら上原先生の発想を活かせるのか、ということばかり考え模索していました。
その中で、数学や理科(量子論や相対性理論等々に関する雑談)を通して人間の心(心意伝承)の話題になった時に、非常に興味を示す中高生が出てきました。国語の教科指導をしなくても国語の成績が飛躍的に伸びる子さえ出てきました。

物語教材でも説明文でも、直接本文から迫ろうとすると、それぞれの「あたりまえ」ということからずれている場合など拒絶反応がとかく起こりがちです。その世界に入ってくません。

また、表面的にはその世界を拒絶していなくても、心の奥底では自分とは無関係としている場合もあります。最近ある高校生に「山月記がさっぱり分からない」と相談されました。「君はこの非現実なストーリーの物語をどう感じた?」と問うと「ファンタジーだから別にいいと思った」ということでした。現代の中高生は深夜アニメやゲームやラノベ等々で非現実な物語には十分なじんでいるからというのもあるでしょうね。

でも、そこで自分との接点を見いだそうとしているかというとどうもそうではない。「あれはファンタジーだから」と別モノとしての存在を認めているだけで、その世界と響き合おうとはしていません。

ちなみにそれと同様なのが「ひとそれぞれだから」という言葉です。自分とは違う他者を認めているかのように聞こえるのですが、実は現代人の場合はそうでない意味合いで使われていることが多いようです。つまり他者を認めているのではなく、他者に対して「私にとやかく口を出すな!思い通り好き勝手にさせろ!!」ということが本当に言いたい事で使われているようなのです。
だから「人それぞれ」のそれぞれを理解しようとはしない。「関係ない」と簡単に割り切ってしまう。

理数のように抽象化された、いわば「型」「構造」から入ると、それまでの「常識」による拒絶が起こりにくいんです。それこそ「ではこの形式にあてはめるとどんな場合が想定できる?」という形で問いかける事で、本人の中から、自分とは異なる考えも浮かんでくる。可能性として「それもアリか」と受け入れる素地になるということがいくつもみられました。

英才児はこうした「論理による型」と「感情・イメージの世界」との共存が非常に自然な形でなされているのかもしれません。
逆に、テスト対策として個々の問題の解き方ばかり求め、そうした自分や他人の心の問題と結び付けることを面白がらない子は、全教科にわたってなかなか思うようには伸びませんでした。

当時の実践記録について児言態雑誌にまとめたものはこちらで閲覧できます。
*児童の言語生態研究 16号
生命の指標(らいふ・いんできす)は我が内にあり : 「児童」後の子ども達への児言態的実践
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00045194

*児童の言語生態研究 17号
「あれこれ」の中から育つ構えや活力・生命力 : 「重ね合わせ」という発想の獲得
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00045210



3,「生涯教育の上原先生へ」 社会人クラス
2011年の震災をきっかけに、元教え子のHNコバルトブルー君の呼びかけで週1回の社会人クラスがはじまりました。(2012年1月までおよそ40回実施 現在駿煌会に所属しているHNチョコレートさんも常連でした)
自由参加で、元教え子だけではなく、誘われてやってきたメンバーも加わって毎回違う顔ぶれ・・・1回1回が勝負でした。

毎回参加者から提案されたテーマにもとづいての探求の中で、上原先生の話題も積極的にしていきました。相手が社会人ということもあり、心意伝承の話題でも、危険水域スレスレの話題(?)にも遠慮なく触れることができました。


参考までに先生の博士論文「心意伝承の研究 芸能編」の目次の一部を紹介しておきます。小学生などにはなかなかそのまま話題にできないことばかりです。

********************
第二編 その形と心の各論 ー心意伝承の様式的事例とその感情構造ー 
犠牲論 ー身替りー
落人論 ー神々の零落ー
心中論 ーぬば玉の黒馬に乗りてー
道行論 ー前わたりの芸能ー
”殺し”と”血”の心意伝承 ー血饗の衰亡ー
付”実悪”の本性 ー悪にかたぶき身が流儀をまなぶべしー

第三編 その行動伝承とのかかわり
「無頼の徒の芸術」その後 ー擬勢という誇示ー
任侠 ーその感情的摂理としての試論、”やくさむ”ことへの思慕ー
注)「犠牲論」「殺しと血の・・」内に「うらみ論」を含む

**********************

初等教育の枠を超えての実践について私論をまとめたのがこれです。
児童の言語生態研究 18号
世界定めの主体としての我 : 全生涯を貫く児言態的視点
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00046609




4、「生態研究そのもの」の授業 英才児との出会いから
2017年11月、聖徳での日常の授業を参観する機会を得る事ができました。駿煌会の吉川君と数学の授業(3年生・5年生・6年生)を参観したのですが、まさに上原先生がずっと説かれていた「言語生態の授業」「教えない授業」がかなり徹底した形で展開されていました。(その後も数回、数学を中心に参観させて頂きました。放課後、何人かの先生方と大変有意義なやりとりも出来ました)

この時の英才児に対しての印象については、上原先生の言葉と共に児言態雑誌19号 (P.69)にまとめています。(閲覧アドレスは後述)



ここで深く考えたのは、何故上原先生が英才児に注目したのか、でした。単に優秀な子ども達だから、という理由からだったのか?ということでした。
これは私の勝手な想像ですが、そのヒントとなるのが上原先生の師匠である郡司正勝先生の遺稿集の次の文です。(P73 [江戸の発想])

**************************
江戸人の目は、いくつもの世界を、同時に一緒にみることの能力があった。トンボの眼のように、複眼的構造は、同時に、いくつもの事象をうつしとることができる。
************************

(注 私はこうした江戸庶民の認識法・思考法等々に裏づけられた生き様を「多次元構造の同時進行」と勝手に呼んでいます。

この場合に限らず、私が「思考」ということばを用いる場合は「論理思考」「数理思考」等々と明記していない限り『感情思考・イメージ思考・論理思考』すべてを含んでのものだとお考え下さい。)

上原先生は「中学年で夢を分母にしていた生き方が現実を分母にした生き方に転換する、高学年はそれを自由自在に入れ替えることができるように」という趣旨の発言をされていました。

ただ、数か月前の難波先生とのやりとりで、それは単にどちらのモードに切り替えるのかというスイッチのようなことではなく、郡司先生が指摘されていた江戸庶民の発想法・・・量子論の「重ね合わせの原理」のように、同時に存在して動いていけるように、ということだったのではないかと。

そうした姿をみせてくれる・・・しかも生命エネルギーの源泉であるイメージ世界をベースとしてずっと持ち続けて生きている・・・それが「英才児」だったから注目されていたのではないか、と考えています。


その後、英才児の自由研究や、児言態50周年の異年齢構成の授業、翌年の「連歌」の授業等々を通して、それはますます確信になってきています。

 別の言い方をすれば、英才児に少しではありますが触れたことで、私の中からほぼ完全に「教科ごとの指導」という意識の壁がなくなりました。様々な分野の刺激によって表出されるものが、どんどん重ね合わさり統合されていく・・・そんな「生態研究の授業」がどの段階のどの教科(分野)でも基本になるのだと考えています。

 上原先生は「小学校の先生は学級担任制が基本」ということを盛んに強調されていました。各教科の知識教育(専門教育)よりも、それらを一人の子どもがどう受け止め、統合しようとしているのかを見届けるのが教師の役目である、ならば一人の教師が全教科・領域を担当する学級担任制こそが小学校段階にはふさわしいと。

 聖徳は教科担任制ですが、英才児の場合は特に指導しなくても子ども達自身がそれぞれに「統合・重ね合わせ」が出来てしまう、そしてより専門的なことへの好奇心が極めて旺盛である、ということから学級担任制でなくても十分な成果があげられているのでしょうね。

 ただ、一般の公立学校で、しかもそうした視点が欠如し、目先のテスト対策にばかり意識がいっている状態で、小学校から教科担任制を取り入れたとしたらどうなるのか?ましてや中高生などで、受験指導のためだけに、より早い段階から「理系・文系」と仕分けするのは論外です。どちらも必要不可欠です。

 小学校では各教科などの枠を超えて結び付ける発想、様々な方向への好奇心を十分に育成することが重要であり、その段階がしっかり過ごせた上での中学生以降の教科担任制だと思います。

教科の枠を超えてということについて私がまとめたものが児言態雑誌19号に掲載されています。
児童の言語生態研究 19号
世界定めの主体としての我 : 全教科・領域に渡る児言態的視点
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00046622


聖徳の授業などを参観していてよく感じるのは、先生方が「好奇心・探求心の邪魔をしていない」ということです。上原先生風にいえば「イメージ運動を見届ける」姿勢。子ども同士でもそうした姿勢を大切に躾けています。

 初めて3年生の数学を参観した際、子ども達の自由気ままな発言や振る舞いをそのまま受け止め、教室が思い思いの言葉でかなり騒がしくなっても「静かにしなさい!」「先生の話を聞く!」などという注意がないまま進んでいくことに驚きました。

ところがその先生が一度だけビシッと子どもを叱りつけました。それは友達の意見を頭ごなしに否定した言葉を口にした瞬間でした。これも印象的でしたね。そういう雰囲気の中で授業が進んでいったわけですが、ちゃんと最後には子ども達の自由な発言の中から「数学でいう集合の定義」が浮かび上がり、理解される形でまとまりました。
 
 大人でもそうですが、ナマの言葉を認め、受け止め、互いに響き合ってふくらませ合えることは大切なことですよね。自分の存在が肯定されているという喜びも格別でしょう。

 聖徳での50周年の授業後の子ども達の様子、連歌の授業のあとの感想文などをみてもそれは分かります。「夜まで続けたい!」「毎日やりたい」・・・・テストの点数を伸ばすための授業では得られない大きな喜び、それこそがこれから人生を生き抜いていくエネルギーにもつながるし、いわゆる「受験」のようなテストにも立ち向かえる実力になると思います。




5,「駿煌会」設立 自由な観点から心意伝承を語り合う
小学校・家庭教師の時の教え子の数名と社会人になってからも頻繁にやりとりをしていたのですが、児言態の葛西先生からの「きちんと名前をつけて活動した方がいい」という勧めで「駿煌会」を設立しました。(この中で私は 虚空 と名乗っています)

ツイッターの紹介文より
アニメや理数や民俗学など雑多なことを通して人間(心意伝承)についてあれこれと考えようとしている年齢も性別も職業も違う4人でスタートした集まりです。(2021年11月現在ライン参加は8人)
☆駿煌会ツイッター https://twitter.com/syunkoukai?lang=ja


下は20代から上は還暦過ぎが4名。職業も教育関係者だけはありません。ちなみに現在の参加者の中で上原先生を直接知っているのは私を含めて3人です。やりとりでは「教育の探求」というよりは、アニメや理数の話や韓国ドラマなど、それぞれの好きな分野の話題を自由に出し合って、上原先生(心意伝承)の話と結び付けています。

2024追記 今回の命日に寄せての「難波先生と駿煌会初期メンバーの対談」ではそうしたやりとりの特徴が良く出ていると思います。


ここで重要なのは、例えばアニメや理数の話が飛び交うといっても、実際にそうしたことに詳しいメンバーはごく一部ということです。でも詳しく知らないからこその視点から自由に発言が飛び交う。それが詳しいメンバーにとっても新たな刺激になり、意識世界の広がりとつながっていく・・・その流れが次のエナベルでのグループワークへと発展していきます。



6、『就労支援施設でのグループワーク』
社会全体が「日本人の体質」にもっと配慮すべき!
児言態雑誌16号~19号に掲載文の内容が、さらに「母国語教育」という原点に立ち返って私の中で統合されていくきっかけになったのが、現在携わっている就労支援施設エナベルでのグループワーク講師としての日々です。昨年4月から週2回(一回2時間)で行っています。

ちなみに関りのきっかけを作ってくれたのが、駿煌会のコバルトブルー君。そして今年からは駿煌会のチョコレートさんがエナベルの正規職員になっています。

エナベル水戸南 HPより(http://hw-enable.com/
身体・精神・知的などに障害を抱えた方に対して、働ける場所を提供したり、様々な学習などを通じて一般就労を目指す訓練を行える事業所です。



*入所資格としては精神科の医師などによる診断書が必要ということなのですが、グループワークに参加されている方々の多くは、先天的な障害というよりは、家庭・学校・職場等々の環境の中で心身を病んでしまったという方々です。
学校不信という方々はご自身の体験談をいろいろと語ってくれました。かなり極端な例もありましたが、私自身の経験からいってもあり得ない話ではないな、という印象です。

 グループワークへの参加は自由。ほぼ毎回参加の方もいれば、数週間に一度という方もいらっしゃいます。一時期は毎回4~7名の参加でしたが、常連さん達が次々と社会へ巣立っていかれたため、現在では1~2名という状態で「グループ」とは言えない状態が続いていますが深いやりとりは続いています。

 かつて行っていた「社会人クラス」との大きな違いは、原則として「完全フリートーク」形式ということです。そうしたやりとりの中のポイントを次々と板書しながら、出てきたことに関わるような日本古来の発想や心意伝承のことなどを私が紹介していく、というスタイルです。こうした流れについて、最近エナベルを卒業されたのですが、それまではほぼ毎回出席されていたKさんはこのように述べています。
「毎回いろんな話題が出て、ホワイトボードがカオス状態でびっしりと埋まりました。でも最後に全体をながめると、大きなテーマが浮かび上がっていて、それが毎回面白かったです」


 難波先生はこうしたスタイルのことを「連歌的拡散思考型」と評してくださいました。(この場合の「思考」も論理思考だけをさすものではありません)

基本的に皆さん、対人関係でのトラウマを抱え、コミュ障であると。また社会的にも様々な偏見・差別にあって、強い不信感や自己否定感に縛られている方が多いです。知らない話題には入れない・・・職場で人の話の輪に入れない・・・というのが社会参加への非常に大きな壁になっています。

「知らないことばかりの自分は、存在そのものが許されない」
そうした想いにがんじがらめになっているままでは、仮に就職できたとしても続ける事が困難です。みなさんは「我慢していくしかない」とおっしゃっているのですが、我慢していった結果、心が風邪をひかれてしまったわけですから、人とのやりとりを「我慢」ではなく「楽しい」というように少しでもなってほしいと思いました。


経済の方面の言葉に「イノベーターは辺境からやってくる」というのがあるそうです。事情通でない者が中心になって動くから、それまでの常識や慣習にとらわれないで大きな変革を起こせると。

これは「まれびと論」に非常に深く通じる考えだと思います。地元に事情に精通した氏神様と外来のまれびと神の両方の力がどちらも必要です。
郡司先生は次のように述べています。(郡司正勝  刪定集6 白水社)

***********************
P180 日本文化が模倣文化といわれ、贋作はうまいが創造性がないなどの評価があるとすれば、この「見立」のせいである。・・・本物それ自体では、意味も趣向もない。無趣味そのものとする。真実というものの考え方が、キリスト教の神と結びつけて考える西欧哲学や美学とは、そこがちがうのである。神は本物の鬱陶しさを悦ばない。趣向という精神の働きの喜びがないからである。・・・偽物も「もどき」「やつし」も驚きの美学である、と言い切ってしまうと語弊があるが、本物以上に、よく出来ていると想わせなければならない。本歌取の精神は、この働きの美学である。見立とは、根源の本物を予測させ、その時々の新たなる発想で装うことによって、光り輝くことである。
 「遊び」の真意もここにあろう。
 
**************************

こうした事をもたらすのが「まれびと神」の御神徳ということではないでしょうか?専門外の部外者が本気になって交流してくる所に新たに生まれる面白さ。

エナベルでこの話を出した時に「どちらにとってもお互いに“まれびと”なんですね」という意見が出ました。同様に「稚児 と 庇護者」関係もお互いなのではないかと…これはすごい指摘だと思います。

自分が知らないような話題であってもどうとらえると自分との接点が見出せ面白くやりとりに参加できるのか、という観点だけではなく、知らない自分が積極的に話に加わる事は相手の意識世界をも広げることになるんだ、「お互いの喜びにつながるんだ・・・ということをグループワークのやりとりを通して感じてもらう、そこにつきます。

もちろんそれには「互いの意見を尊重し、取り込み合う」という姿勢が不可欠です。先ほどの英才小学校の授業でもそれは徹底していました。
ここで一つ強調しておきたいのは、実際にグループワークに参加している方々で構えがかわり、自然とやりとりができるようになり対話を楽しめるようになってくると、精神を病んでいる方だと感じることが皆無だということです。自分の場合は正規のエナベル職員ではないので、病歴などの個人情報は知らされていません。そうしたこともあり全くの先入観なく、ごく当たり前の感覚で対等にやりとりさせて頂いています。



エナベルでの実践は、国語教育思想研究 第21号に書かせて頂きました。
母国語教育の支柱としての「構え」、再考 : 連歌の発想を取り入れた就労支援施設のグループワーク実践から
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00050399
 

最近の常連である利用者さんの声も紹介します。

*Mさん(スピリチュアル・心理学・歴史などに強い関心)
「最初の頃はアニメの話題も全然分からなくてついて話についていけなかったですけど、慣れてきたらアニメをほとんど観ていない自分でも心理学とか心意伝承とのつながりがみえてきて、とっても面白くなっています」
⇒ちなみにこの方はご自身のブログのテーマの中に「心意伝承」という項目をたてられています。記事の内容としてはグループワークでの話題そのものではなく、触発されてご自身で広がった思いなどを中心に書かれています。
こんな風に「心意伝承」という言葉を普通に使って下さる方が増えるといいなと思っています。



T君(深夜アニメ・ゲーム・歴史・神社仏閣等々が好き。)
「自分はグループワークに参加して半年近くになります。グループワークは参加した方々とお互いの意見を伝える場です。その中では話の中で出たテーマに沿って意見をするだけでなく、自分自身が思ったこと、感じたことを意見し、様々な話題に対して因果性や関連性を持たせ、発見あるいは気付きをもたらせてくれる場となっています。

加えて、グループワークの中で自分が重要だと感じるのは、あくまでそこが講義の場ではないと言うことです。参加する方々にはそれぞれ趣味や話題などがあり、それに対してどう思うのかを参加した他の方に尋ねますが、自分の知識や見識を披露する場に限りません。自分がこれまで考えていたこと、抱えていたことに対して、他者による客観的な意見、あるいは共感性を得られる機会となっています。




例えば、話題に上がるアニメの話。自分も好きなアニメがあり、それを他の方も知って話題になることもあるのですが、一見してアニメとしてひとくくりにされそうなものを、人間の根底にある無意識、あるいは古来の日本人的な考え方に照らし合わせて、他の事柄にも共通する場面が多くありました。日本の歌舞伎などの芸能、あるいは日本神話の八百万の神々、芸能や神話から物事を抽象化し、今あるものと関連付ける。

そこから学べることこそ、日本人の本来持ち合わせてきた、物語というある意味で言えば象徴的な分野に関して、民族を統合させる、または共感させる部分があるのだとわかります。

この、今日本の社会で失われつつある能力に関して、自分はグループワークを通して学べたと思います。

グループワークで心意伝承と数学や科学を結び付けての紹介もするのですが、そうした理数分野にはほとんど関心がなかったという彼は、非常に積極的に自分が新たに思いついたことを発言されます。特筆すべきは、彼の場合ここでのやりとりが、この場だけで終わるのではないという点です。

自分自身の内面や過去と正面から向き合うきっかけにしていて、認識の仕方が変われば日常生活も変容していく(構えの変革)、ということが周囲の人たちから見てもはっきりと見てとれます。まさに「思考」「感情(イメージを含む)」「用具言語(知識を含む)」が「構え」として統合されていくという流れ。
また彼は率先してホワイトボードの書き込みも担当してくれるので、そういう時は板書はすべておまかせしています。




最近のエナベルで特に反応が大きい心意伝承の項目は犠牲論・恨み論・落人論・殺しと血の心意伝承です。「かぶき者」「芸談」「本性示顕」「まれびと」関連の内容も好評です。

最近の参加者には「小説執筆」を趣味にしている方が3人いらっしゃるのですが、上原先生の 「かぶき十話」での「第五話 よみがえりの本義 ー超一級の鎮魂葬送劇『義経千本桜』ーの背景にある日本人の心については、執筆の上で大いにっ参考になったと話していました。

この時は先生の師匠である郡司正勝先生の「かぶきの美学」(転身の秘儀・残酷の美・死への招待・夜のドラマ・悪の美学)も取り上げたのですが、みなさんの意識の転換、人生の変革にも大いに刺激される内容だったと好評でした。
どういった話題が特に響いたのか、というのは、長年皆さんの心を苦しめていたことに直結する内容を伺わせるのですが、それは同時に、それらの否定的な縛りからの解放に直結することも意味します。児言態雑誌18号の私の原稿で詳しく触れたトランスフォーメーション(意識世界の転換)発動への強力な引き金になるということです。   

現代は対人スキルを高めるためにという名目で、様々な場面で「プラス思考」ということが叫ばれています。しかしそれで簡単に切り替えられる人は別として、本当に悩み深き人たちは、そう簡単に心の底から切り替えられません。自己否定や世を恨む、等々の負の感情がどうしても捨てきれない。だから「前向きにならないとダメだよ」と言われれば言われるほど「どうせ自分はダメ」という否定の意識にがんじがらめになってしまいがちです。

しかし、上原先生にしても郡司先生にしてもあげられている項目は「犠牲」「落ちる」「死」等々いわゆる否定的なニュアンスの言葉ばかりなんですね。でも日本人はそうした世界を突き抜けてプラスに転化するというのを得意にしてきた民族です。球体思考といえば分かりやすいでしょうか。東へ東へいけばいつのまにか西につながる、というのと同様に、平面的に考えれば永遠に出会うことのない正・負の真逆のベクトルが、球体では出会う・・・駿煌会の吉川君はそれを「究極のバッドエンドが究極のハッピーエンドにつながる」と称しました。児言態の授業実践では「夜のくすの木」の扱っているテーマです。

その根底にあるのが「母胎回帰と闇」・・・負の状態は再生への準備期間という発想です。日本神話でいえば「黄泉の国」⇒「禊・祓い」⇒「新たな神々の誕生」というプロセスの暗示している内容。そうした発想を「裁断と継続」「死と再生」などと先生は呼んでいたわけですが、そうした発想がこの国の標準であったことはもっと広めたいものです。

ただ、こうした事柄は、一つ間違えると「自殺」や「反社会的行為」を肯定する根拠として都合よく利用sれかねないというのが大きな問題です。

上原先生の説かれている内容は、先生の個人的な見解というものではなく、心意伝承・・・つまり日本民族が数千年にわたって積み上げてきた無意識の重ね合わせから生まれてきたものです。そうした日本人が本来抱いてきた生活意識・生活感覚があまりにも忘れられていしまっています。

少し前までの日本人であればごく普通だったようなことでも、エナベルでそうした話を紹介すると、「初めて知った」と大変に驚かれます。

そんなかつての常識を知ることがきっかけで、現代社会の中の常識基準で「異常」という烙印を押され絶望感に凝り固まってしまっていた自分が、それほど異常ではないのかもしれない・・・時代が時代なら良く評価されていたのかもしれない・・・そう思えてくるようです。

実際に教育でも精神医療でも「西洋でのあたりまえ」が明治維新の頃や、第二次世界大戦後に怒涛のように流れ込んできました。それらすべてを否定するわけではないですが、中には日本人の体質に合わないもの、日本人にとっては逆効果・真逆の価値観であるものも少なくなかったと思います。

本当に治療の必要な部分もあるのだと思いますが、あまりに日本人の体質に合わない生活を強いられてきた結果、悪くもない部分が「病気」と判定され、苦悩を増やされている場面もかなりあるのではないかと感じています。

とかく「かつての人々は」と言い出すと、時代遅れ・時代錯誤と決めつけられてしまいがちですが、一度そうした常識を捨てて、丁寧に再確認しなければならない時期にきていると思います。

実際にそうした見直しを提唱される方も徐々に増えているように思います。




7、最新科学の立場から上原先生を裏付ける
上原先生は初等教育の段階ほど「身体感覚と一つの教育」「小学校の先生は生理学もきちんと学ばなければなりませんよ」と話されていました。そうしたことを実感させてくれる番組が、最近よくNHKで放送されています。身体感覚でも大脳の働き(学習理論)でも、もともと日本人があたり前としていた事が、何十年も「西洋的な常識と違う」という理由でどんどん否定されてきたわけですが、これらの番組で紹介されているのは、むしろ古来の日本人の感覚、上原先生が何十年も前に「とりもどすべき」と主張していた内容を証明してくれるような内容ばかりだということです。

ありがたいのは「最新の研究で明らかになってきました」と繰り返される言葉です。日本人ってこういう前書きに弱いですから。

一般の方々にとっては、いくら「上原先生が・・・」と言っても全く聞く耳をもってくれないというのが実情です。そうした方々に対して上原先生の名前や、独特な用語・言い回しを用いずに、何とか伝えることが出来ないだろうかと模索したのが、こうした「最新科学」と上原先生を結び付けることです。

それに関しては「国語教育思想研究 第22号」に載せて頂いたものに詳しく述べています。

上原輝男の「ことばの教育」を最新科学の立場から裏づける :個々人や民族の「体質」に応じて「構え」を育てるとは
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00050898


生理学だけではありません。家庭教師時代から実践してきたように「心意伝承・日本古来の発想(神話的思考)」と「相対性理論」「量子論」(特にパラレルワールド)、そして最新の「素粒子論」「インフレーション宇宙論」「ダークマター」等々のこととは非常に相性がいいというのは繰り返しこれまでも述べてきたとおりです。
古来からの日本人の「この現象世界は見えない世界の投影のようなもの」「言霊信仰」等々の発想は、現代においては「そんなバカな」と相手にされない内容です。しかし、そんな内容でさえも、最先端の学者の中には、そうした仮説をたてている方が増えているそうです。古代日本人の発想・心意伝承の事柄が科学的に証明される時代がそこまできているのかもしれません。



8、上原先生の「かぶき」素材は、現代社会の「アニメ・漫画」
家庭教師でも駿煌会でもエナベルでも、「アニメ」などを素材に使うことが多いわけですが、アニメを素材にする根拠となっている上原先生の言葉の代表的なものが次の二つです。

**************************

上原語録
かぶき十話 p13 歌舞伎は日本人の心の偏向
なぜ私が歌舞伎を取り上げるかというと、能(謡曲)よりも歌舞伎の方が知識人がつくっていないという理由からである。庶民がつくったものであるから、理屈があってつくっているわけではない。つまり、偏向がまま、偏りのまま、好きな放題につくってきたということである。だから、学問的に処理する場合、一番自然な形でいい材料があるというふうに考えている。


・「テレビ作家の教育力」発言
子どもはいつでも夢を見ている。その中に先生だから入れるということでなければ、(ならない)。ガンダムの世界、子どもの世界、夢の世界に働きかけている。(これが、)テレビ作家たちの仕事、
教育力ということから言えばテレビ作家たちの方が優っている。
教育の世界に(は)、子どもの世界に触れるものがない。
1992年(平成4年)9月15日 月例会
 
*********************

その気になってとらえると、いわゆる深夜アニメと呼ばれる作品、あるいはその原作となっている漫画やライトノベル小説は、心意伝承や日本古来の発想に深いかかわりのある内容満載です。(鬼滅の刃に関して後述)

そうしたアニメなどで育った世代が、ちょうど今、若い親の世代になってきています。そうした方々は、アニメの内容と結び付けながら上原先生の話を紹介すると非常に興味をもって受け入れ、深いところで響いてくれます。

また深夜アニメには、上原先生が重視していた「生活感情(ナマの感情 屈折感情等々)」にダイレクトにかかわるもの、かなりきわどい内容のものも少なくないわけですが、そうした内容だからこそ、上原先生・折口先生・郡司先生の「危険水域」にふれるような事柄を紹介しやすいというメリットがあります。
そこが所謂ジブリアニメや名作アニメとは違う点です。




9、現代社会を「上原先生的に生態としてとらえる」
テレビ作家の教育力という発言がありましたが、最近それを改めて考えさせられることがありました。劇場アニメですが今年公開された「竜とそばかすの姫」の細田守監督さんの言葉です。

この言葉は「アニメ・漫画・ゲーム」や「ネット社会」の悪影響を問題視する(特に中年以降の)教育関係者がしっかりと考えなければならない重大なことを示唆してくれていると思います。

************************
細田守監督
・「インターネットの今の世界のイメージは何ですか?」って誰かに聞いたらさ、「誹謗中傷」ってくるじゃない、今はさ。
その時思うのは生まれた時からスマホがあってSNSがある子って、どうやってこの世界を生きていくんだろう?って思ったんですよね。例えば自分の子ども・・・8歳と5歳なんですけど、もうすぐ携帯を持ってSNSのグループとかに入っちゃうわけですよ。「誹謗中傷」だと言われている荒海の中をどうやって過ごしていくんだろう?って。
でもそれだけではなくて、なんかもっとこう希望が持てる場所であってほしい・・・自分の力を発揮できたり認められるような、最終的には希望に満ちた世界であってほしいな、っていうことを思って作っているんですよね。

************************

 実際に映画の中では誹謗中傷などの負の部分もしっかりと描かれているわけですが、そうしたネットにふりまわされている現代社会をどんなに批判したところで、もう後戻りはできないわけですよね。

感情教育論で上原先生が

『教育は投薬ではない。
それは生まれ出た人の子が、人の心を
獲得していく過程を保証することである。』

と書かれていますが、こうした社会になっているのを真正面から受け止め、その中でどのように成長しようとしているのかをしっかりと見届けるという姿勢がまず私達に問われているんだと思います。

少なくとも細田守監督はそれを真剣に追求し、形にしている。最も遅れをとっているのが教育界ではないかと思います。

「いじめ等々の実態調査」などもそうですが、本当に子ども達の心の奥底まで把握する姿勢でいるのか?以前下条君の息子さんの学校で行われていた調査をみせてもらったことがあるのですが、子どものためというよりも、何か起きた時の学校(教育委員会)の言い訳のための調査としか感じられませんでした。(細田守)

人類が過去に経験したことがない状況といえばコロナがあります。感染対策としてオンラインがこれだけ日常に急速に入り込んでくるとは誰も予測できなかったでしょう。こうしたことからも、細田監督の方が意識が先に向いていたといえるかもしれません。

乳幼児を保育園に通わせているかつての教え子たちとのやりとりで「マスク」の問題が出ました。様々な人たちと出会い交流していく大切な時期に、周囲の人たちがマスクをしているため、表情の半分が隠されている。こんな状況で相手の気持ちを察する力がちゃんとつくのだろうかと心配していました。

ある調査でネットで使われる顔文字で日本と海外の違いが指摘されていました。日本では目の部分の違いに工夫が集中するのに対して、海外の顔文字は口の部分に工夫が集中しているそうです。それが「目は口ほどにものを言う」という文化なのか、口元の大きな動きで感情表現をする文化なのかの違いなのでしょうね。日本人と比べて西洋人がマスクに対しての拒絶反応が強いというのはそういうところにも要因があるのかもしれません。

そうとは言ってもやはりマスクをした顔ばかりに囲まれて育つことが、対人意識などにどういう影響をもたらすのか・・・・それも、直に対面しての授業が減った影響がどのように出ているのかと同様に、きちんと子どもの無意識にまで迫る形での実態調査が望まれます。



10、「自分って何?」人生のつかまえ方  
エナベルでも、駿煌会のHN諷虹君とのやりとりでも、現在最先端の話題の一つがこれです。「本当の自分と偽物の自分」(・・・とはいっても中高生とのやりとりで何十年も繰り返しあがっていた話題ですが。)

例えば先の「竜とそばかすの姫」の冒頭のナレーションはこうです。

***********************
『ようこそ「U」の世界へ。「U」はこの世の知性を司る5人の賢者ボイシスによって創造された究極の仮想世界。アカウント数50億を突破してなお拡大を続ける地上最大のインターネット空間です。・・・・・・・

「U」はもう一つの現実。「As」はもう一人のあなた。現実はやり直せない。しかし「U」ならやりなおせる。
さあ、もう一人のあなたを生きよう。さあ、新しい人生を始めよう。さあ、世界を変えよう。

(それの裏付けとなる細田監督の言葉がこれです。)

「ベルっていうのはインターネットの世界の中心にいて煌びやかで華やかで堂々としている、胸をはっている人物だとしたら、その中にいる すず っていうのは全く真逆だろうと思ったんですよ。
そもそもインターネットの世界で「美女と野獣」をやろうって言ったときに、もともとインターネットというもの自体が一種の二面性を孕んだ世界でしょ。本当の自分と書き込みする自分とかさ。アイコン上の自分と本当の自分って、おんなじようにみせて案外ちがうじゃないですか・・・実は。そういう二重性も含めてインターネットの面白さだと思うんですけど、それと美女と野獣の野獣というものの二面性・二重性っていうのがすごい一致していると思って・・・」

***************************


それに対して上原先生の「自分」観はかなり違っています。
****************
上原語録
・僕自身の考え方の根底を言うならば『人間としての個体』なんて有り得ない。 どっかで錯覚するように我々は教えられてしまっただけの事であって、どこに『自分自身』なんているのか、その自分自身というものが仮に言えるとするならば、その人の時間観・空間観・人間観なんだから。      (平成二年合宿)

・最近の結婚も「自分たちの結婚」とか「自分たちの幸せ」なんてことばかり言ってるが、日本人はきちんと家と家の血筋の流れが一つになると捉えていた。こんなことを言うと上原は古いと言われるかもしれないが、筋を大切にすることが自分の生き方に責任を持つ上でも大切なことだったんです。命の流れを受け継ぎより高めて次の世代に伝えていく、そうした責任が諸君らにはあるんです。 自分は伝承体である、ということを忘れないでください。         (国語教材)

・ 犠牲者には犠牲者たりうる資格があるんです。特別な人間だから『神人交感』が出来るんです。巫女さんがお告げをしたりするのも同じです。
 『自分』というものを消し去る、だから神様を呼び込むことが出来るんです。神様の世界と交わることができるんです。『自分』の意識があるうちはダメなんです。            (日本教育史特講)

************************

そもそも、日常の生活を送る上で、まったく自分のことしか考えずに行動している人はいるのでしょうか。何らかの形で大なり小なり他人や社会を意識して行動するというのがあたり前の姿。

ならば人生のすべてがこの現実空間という舞台の上で「その時々の自分自身」を演じている姿と考えられるのではないでしょうか。

そうすると「どれが本当で、どれが偽物」とか、「否定的なことばかりの過去の自分」だって、「すべてが自分」・・・・それらを量子論的に重ね合わせたところにおぼろげにみえてくるのが「自分像」なのではないか?

そして他人や社会に対しても、そうした見方ができるようになってくると「世界定めの主体」たる自分が確立されてくるのではないか?

そんな風に上原先生の言葉を参考に、みなさんと模索中です。





11、今後に向けて①  様々な方々の力を重ね合わせて
ここまで私なりの数十年をザっと述べてきましたが、それでも上原先生の広大な世界のほんの一部分としか触れられていないというのが正直なところです。上原先生と直接かかわりのあった方々、関りがなくても関心を持って下さった方々、そしてこれから出会うであろう様々な分野の方々・・・教育学や民俗学とも違う分野、さらに学問の世界とは違う方々・・・そうした方々が、それぞれの切り口で上原先生の言葉と響き合った内容をやりとりし、重ね合わせていく、そうしたやりとりを後世に残していく、それは是非、先生の門下生が確実に動けるうちに実行していきたいところです。

☆1 「上原先生が生きていらしたら…」という妄想
この25年間、よく思いうかべていたのがこのことです。先生の口癖は「僕は足踏みが嫌いだ」・・・・ある程度成果があがり目途がついたら、もうその成果については浸っていないで、次の課題をみつけてさらなる探求をして行こう、という姿勢。
これだけの社会の急激な変化の中で、「かわらぬもの」を根底に見据えながら、どういった課題を掲げ、探求されていったか・・・現時点でどのような原稿を執筆されていたんだろうな?とか・・・

上原先生の説かれた内容に全く追いつけていない自分、先生の真意を探求することは今後もずっと必用なのは言うまでもないことなのですが、同時に私なりに「次の課題は・・・」と探求していく姿勢も受け継いでいきたいと思い続け自分なりに試行錯誤してきました。

幸か不幸か・・・体を壊し退職、等々思いがけない人生となっていますが、そういった自分の人生の流れだからこそ探求できることは何か・・・転んでもただでは起きない・・・という気持ちでやってきたのがこの25年間でした。
そういう意味では、先生が亡くなられた年の夏に自分の退職が重なったということにいろいろと思うところがあります。

先生が今も生きていらしたら、そんな自分がどんな対話を先生としていたんでしょうね・・・・
そしてこのように上原先生が直接は出会えなかった皆さんも交えてどのようなやりとりがされていたんでしょうね・・・・
そんな妄想も、今後を考えていく上で大きなエネルギーになるかもしれません。



☆2 ネットを活用した資料どり・検討会
児言態でもだいぶ前から「児童の言語生態研究」を掲げていても、多くの会員が教育現場をはなれてしまって「資料どり」等々が出来ない状況になっていることが問題になっています。

そうした状況ではありますが、はからずもコロナによって、教育現場や子ども達をとりまくネット環境の整備・拡大が想定外のスピードで整ってきました。これを活用しない手はありません。実際に駿煌会でも児言態でも、コロナの状況がなかったらこれほどオンライン会議で遠方の方々も参加してのやりとりができるようになったわけですから。

無論、実際に顔をつきあわせての会合が重要なのは言うまでもないことですが、オンラインがなかったら、遠方の方々も交えてやりとりが出来たというのは年に1~2回あればいい、ということになってしまっていたはずです。

上原先生に共鳴してくださる方々が増え、そのネットワークが広がったらそれこそ日本各地の様々な子ども達の資料どりも可能になるかもしれないですね。そしてまた生態研究としての「資料どり」を行うことそのものが、「そういう調査の観点があるのか」と知って頂く機会にもなると思います。

理想からいえば、資料どりの後の検討も様々な方を交えて行えたらいいな、と感じています。

実際問題として「言葉のスナップ」を収集する際に、意識のアンテナにひっかかる言葉が受け手によってまるで違うということは普通に起こる事です。同様に「作文分析」でも拾う言葉が違ってくる。そもそも「資料として価値がある・ない」という判定までもされてしまいます。(もともと作文の場合は「資料どり」としてだけではなく、もっと大切なのは、その作文を通して書き手の内面を共感的にキャッチするかどうかですから、期待するような内容が書かれていなくても、無下に扱うのはつつしみたいものです。)

心意伝承をはじめとして、様々な事柄の内的なつながりを普段からどれだけ意識しているのかによって、言葉の裏側にある何かをキャッチする感度が違ってくる・・・自分自身の感度が変化すると、前に読んだ時には気にならなかったような言葉が、実は非常に大切だったのだと、再認識というのは何度も経験したことです。

感度アップのために大前提になる基本姿勢が、日々「他人の言葉を受容的に聞いてやりとりするか」ということなのでしょうね。ベクトルに例えれば多様な方向があることへの気づき。勿論一人で考察する場合でも、安易に決めつけないで「こういうこともありうるかな」と想定するわけですが、はやりどうしても、現時点での自分の発想の枠内でのベクトルの延長になってしまいがちです。

駿煌会設立前から初期メンバーで作文の詠み合いはよく行っていました。最初のきっかけは河上先生から出された中学2年生の「壺作文」でした。それぞれいい具合に敏感な分野が違うんです。(HNチョコレートさんの 書き込みコメント は名物です)

以来、主要な作文分析はこのメンバーで一緒にやって、その結果をまず「重ね合わせ」します。そうするとそれぞれ同士が化学反応を起こして、発想が「単なるたし算」ではなく「かけ算」のようなイメージで広がり深まっていくのを互いに感じています。駿煌会でやりとりする時の基本姿勢もそうですね。エナベルのグループワークも同様です。それこそが先にも述べた「連歌的拡散思考型」のやりとりです。

ネットなどでさらに様々な人たちが加わって、共に検討し合うということは、単に「実態調査」「生態研究」ということではなく、我々自身の変革のためでもあります。
よくグループワークでも言うのですが「一番勉強になっているのは、この宮田だよ」と。すべての回に参加して、すべての多様な参加者とやりとりしているわけですから。

例えば今、個人的に私が是非調査をしてみたいと考えている一つが、昨年から話題になっているアニメ(漫画)「鬼滅の刃」に関してのことです。
この作品が社会現象と言われるまで多くの人たちの心を動かした・・・しかも小学校にあがる前の子ども達の多くも夢中になっている・・・そういう事は耳にはしていたのですが、実は私はこのアニメについてはほとんど無知でした。
最近になってやっとアニメを観たのですが、心意伝承に直接関わるシーンや設定が思っていた以上に多々あったと感じた一方で、私がみてもかなりきつい凄惨なシーンの連続であることに驚きました。

これが「どうしてそのような幼い子ども達の心にも響いているのか?」・・・というより「どういった部分に共鳴しているのだろう?」という事に非常に興味があります。
感想文という方法も高学年や中高生以上ならいいのでしょうが、最も知りたいのは幼児や低学年の子ども達。この年代の調査はどうしたらいいのか?

一つ考えたのは行動観察です。教え子の子ども達でも幼い姉妹で盛んに鬼滅の刃ごっこをして遊んでいるという話を聞いたのですが、子ども達のごっこ遊びの様子をまとめるだけでも、心意伝承に関わる大きな何かが浮き彫りになるのではないかと予想しています。

民俗学方面の調査にしてもネットの活用で地元の方々への聞き取りや、疑似フィールドワークが幅広く可能になると思います。



☆3 オンライン授業の可能性
コロナをきっかけに急速に増えたオンライン授業。実際にどのように行われているのか知りませんが、NHKの教育テレビや放送大学の講義のような形が主流なのでしょうか?多くの現場で模索が重ねられたことでしょう。

私の場合、現在の大きな試みが「ネットを用いての子どもとのやりとり」です。この春からZoomを用いて遠方の小学校1年生と毎週1時間半、やりとりをしています。通常の家庭教師の授業というよりは、相手も私もたくさんのぬいぐるみを使っての人形ごっこ。その中で相手の子がチラッとみせた言動に対して私がいろいろな働きかけをし、逆に私が働きかけをされ・・・そうした即興のやりとりの真剣勝負です。

最初はオンラインで小学校1年生を相手にどういったやりとりができるだろう?というスタートでした。引きうけた時点では人形を使ってのやりとりというのは全く考えていませんでした。

ヒントになったのは昨年からずっと広島大学東雲小学校での研究授業の検討で宮本先生と「即興演技を前面に出した授業」について語り合えたこと。人形ごっこのスタイルをとれば1対1であっても多数のやりとりになるのでは、と考えたわけです。しかも即興ですから、上原先生が大切にされた低学年でのイマジネーションをベースにした世界でのやりとりの中での新たな授業スタイルの可能性にもつながるのではないか、と。

通常の家庭教師での授業と大きく違うのは、私も相手の子どもも、一人何役もこなして行っていく点です。毎回どんなやりとりになるのか全く予想はつきません。だからこそお互いの無意識の領域からの様々なものが飛び出してくる。また立場とか人形キャラの性格によって反応のしかたが違うということにも自然に気が付いていけるわけです。

エナベルでの「連歌的拡散思考型のやりとり」の人形ごっこ版ですね。
考えてみれば「落語」「講談」「琵琶法師」・・・等々、日本の語り文化は一人が同時に複数というスタイル・・・先に述べた「江戸庶民の発想」というように多様な自分が同居して同時進行で進んでいくという生き様に通じていく文化だったんだなと改めて感じています。

 「人生を芝居」というとらえからをすれば、日常でのやりとりすべてが「即興劇」ということになります。

 複数の人形を用いての即興やりとりはこれが複数の並行世界が重ね合わせで行われるようなものですから、それらに対して、こちらが「どの人形を使ってどう返したらいいのか」を瞬時に判断するのはなかなか大変です。考えて答えているのではスムーズな対話になりませんから。むしろ無意識に反応できるくらいでないとならないわけです。

 子どもが「ごっこ遊び」に夢中になっている時って、それがごく普通にできるのですからすごいですよね。毎回1時間半あまり続くわけですが、子どもの方はまだまだ余力を残しています。そのエネルギーも、やはりイメージ世界がベースになっていることから湧き上がってくるのでしょうね。 この歳になって私の方が「夢分母」の姿勢を復活する訓練を受けているような感覚です。

**********************
上原語録
子どもの発言にどう答えて「やりとり」をしていくのかが教育ですよ。
 言葉は一部にすぎないんですから。事実は『事』の中にあるんです。言葉は実体の上辺なんですから。子どもが本当に思っているその実体を感じ取って答えていけるかどうかが、本当の意思の疎通ですよ。そこに答えてあげれば、子どもは「ああ、この人わかってくれてる」って満足するんですよ。(「児童言語の研究」)

**********************

 上原先生の最終講義のテーマは「かいまみの世界」でしたが、「ごっこ遊び」(即興劇)などで遊びに夢中になっている時はよりこの「冥界からの信号」が出やすいわけです。しかもそうした時の言葉ほど、すぐに意識から消えてしまう。聞き落してしまって「今、何て言った?」とすぐに聞き返しても、たいていは「えッ?何かいった? 忘れちゃった」となってしまいます。


 「郡司正勝 刪定集6」(白水社)の「解題」を上原先生が書かれているのですが、郡司先生の本文の中で、上原先生が特に注目されているのが次の文です。
******************************
☆風流と見立
P,206 ・・・この量的な実体が隠されたもの、われわれはこの影をみること、「御影(みえい)」に扮することによってしか本体を見透かすことができないのである。つまり本体の影としての「やつし」によってしか、この世の次元では本体に接することができないのである。笠という異形の風流、それは聖なるものの傷跡、聖跡というべきものであるかもしれない。

P239  演劇の根源は、まず見世物であって、人生の模擬に熱中することによって、人生を、社会を、変革してゆく記号・旗印・標識なのだとすれば、「見立」こそは、いつも新しい活力の源泉なのだということになろう。仮象の山や雲を造り出して、人間は、その後ろの本体をつねに透視するのだとおもう。いや人間には、仮装の造り物を作り出すほかに、本質に迫る「しかけ」は与えられていないということになる。
 こうした想を喪ったとき、人間は枯れ疲れ変わり果ててしまうのだろう。なにかを持っている印をわれわれは見失ってはならないのだとおもう。

*****************************


 現代社会は「コミュニケーション講座」等々を方法論の伝授として行いがちです。上原先生は学生たちに「言語過程説」を何度も説かれていましたが、まさにそれの真逆。言語はコミュニケーションのツールという言語観ばかりが横行しています。だから「自分はコミュ障だから人の気持ちが分からないんです」「どうすれば人の心が分かるようになるんですか」ということになっていまう。

 生きる姿勢に対しても同様です。人生の壁をのりこえて生きている人たちは「方法を知っている」と思ってしまっている・だから何かあるとすぐに懸命になってスマホを取り出し、ネット検索を始めます。どこかに答えがあるはずだと。

なので「そんなの幻想だよ」ということは家庭教師の際にも随分と話してきました。エナベルの場合だと、どうしても「自分は精神疾患だから」という負い目があります。その縛りから解き放たれないと次に進めません。なので私は「じゃあ、精神疾患って診断されていない人は、他人の心がわかっているの?」「そもそも他人の心がみんな分かる、っていうことがあり得るのかな?逆に無意識も含めて他人にすべての心の中が分かっちゃったらどう?」等々と聞き返します。「すぐには分からない」からこそ、「分かり合おうと心がける」あるいは自分の枠内での発想だけで「〇〇に決まっている」と判定したり裁いたりしない、という構えが大事なのだと感じてもらえたらと思っています。

それにしても子どもの持っているエネルギーは半端なくすごいですね。あとは切り替えの早さ。トランスフォーメーションをどのように起こすのかという点で私の方が学ばせてもらっています。

現在、家庭教師としての依頼はほとんどなくなっているので、こうしたオンラインのチャンスが増えると、さらなる多様な活用法が生まれるのではないかと思っています。皆様の知恵も拝借しながら。



☆4 「松下村塾」「寺子屋」スタイルの再評価
吉田松陰のエピソードとして獄中でそれぞれの得意分野に関して交代で指南役になって学び合う場がつくられていた、というのがあります。

また松下村塾も特定のカリキュラムや時間割などはなかったと。年齢も立場も専門分野も違う若者たちが来たい時に自由に集い、読書など好き勝手に過ごしていた。その中で時折松陰はある者が探求していた課題に関して、他の者はどう思うかと投げかけ自由トークを盛り上げていった・・・そんなスタイルだったようです。寺子屋も西洋的な一斉授業というスタイルではなかったようですね。

小原國芳先生がこうしたスタイルを取り入れた理想の学校として玉川学園を設立され、上原先生もその趣旨に賛同されていたということですが、そうした「自由教育」の流れは現代社会にそぐわないということで急速に衰えてしまっています。私の教師だった頃に盛んに言われていた「教師は支援者に徹する。子ども達の主体性を伸ばす」もいつのまにかかき消されてしまっています。

しかし「競争原理」「成果主義」等々でがんじがらめになってしまっている現代社会であっても、これまでの常識が通用しないような想定外のことばかり起こりうる、急速な変化への対応が求められるこれからの世に生きる人間を育てなければなならない今だからこそ、こうした日本古来が教育システムの再評価が必要だと思っています。
 決して世間が望んでいるような受験等々の結果を否定するわけではありません。ただ、「そのような結果」を何が何でも出そうとした結果、多くの子ども達の可能性をつぶし、ひどい場合は問題児扱いしてしまっていることがあまりにも多い気がします。

************************ 
参考)聖徳での連歌の授業のあとの研究協議の場で、難波先生から「ギフテッド教育」の話が出ました。「発達障害」という判定の問題です。ある基準からみれば非常に優れた子ども(人間)が、今の社会のシステムの中では、不適応な存在としかみられない。特にこだわり(エネルギー)の強い者ほど上の言いなりにならない・・・それでは指導力・管理能力が疑われる・・・だから「障害者」というレッテルをはってしまおう、という本音が見え隠れしている場合が少なくないように思います。
**************************

広島大学付属東雲小学校の宮本先生の複式学級における「教えない授業」の実践などは非常に重要だと思います。「複式」というとだいたいは過疎地の学校でやむを得ず行われているという負のイメージがありますが、東雲小は別に過疎化がすすんで児童数がほとんどいない、というわけではありません。

教育的な意義からの実践ですよね。

私の場合、それに近かったのが分校での勤務経験でした。(私が3年生12名の担任。もう一クラスは2年生9名。全校児童21名)勤務した平成4年、分校のような少人数ではまともな教育が出来ない、ということから廃校が検討され地域住民と行政が激しくやりとりしている中での赴任でした。結果としてはその年をもって本校と統合されたのですが、本当に小人数ではまともな教育が出来ないのか、というのを思い切って試した1年間でした。2年生との合同の活動も多数とりいれる中で、本校の児童をはるかにしのぐ部分を多く示してくれました。(ちなみに児言態の「ぼけとツッコミ」の研究授業で上原先生もいらしてくれました)

詳しくは宮本先生からあると思いますが、世間的には国立大学の付属小学校で、こうした複式学級、そして子ども達が主体となっての授業が日常的に行われているという実践は、是非広く世の中の人たちに知ってほしいものです。

それと同様に、聖徳の授業スタイルも、広く世間に知ってほしいと思っています。「英才児教育」というと世間的には、いわゆる進学塾のような、教師主導で問題の解き方などを効率的にビシビシ叩き込んでいるような授業が行われているのであろう、という勝手な思い込みがあると思います。
でもそうではない。むしろ子ども達の好奇心などを邪魔しないように支援していこうというスタンスで先生方が接している。

最近葛西先生から1年生への素読導入や、かつて低学年で行われていた歴史での教えない授業について伺ったのですが、大変に興味深い内容でした。

そうした教師の姿勢そのものを多くの人たちに知って欲しいです。
そして、それは「英才児や付属の児童だから可能」というのでは決してない、ということも。クラスの中で問題児扱いされているような子が、実は周囲の働きかけを少しかえるだけでものすごい能力を発揮しうるんだという事例が日本各地での様々な実践から生まれてほしいと願っています。
それこそが、上原先生が英才児に注目した根幹にあるような気がするので。



補足)今回寄せられた資料の中に初期の聖徳に関するものがありました。
(聖徳の教育と上原先生の想い出 園田達彦)
その中に「英才児の特性と能力に応じた指導を実践するために、昭和44~46年は無学年制を実施していたので、異学年クラスが存在した。」とあったのですが、現在はどうなのでしょうね。

児言態50周年での研究授業は希望者による4~6年生の異年齢集団でしたが、東雲小と同様に、異年齢というのは下の子にとっても上の子にとっても様々な刺激があって、非常に意味があると思います。

特にテスト対策の効率のために各教科の分断があたり前になってしまっている教育界での多くの現状を打破することは、本当の得点力を伸ばしたいなら尚更重要だと思います。
子ども達のさらなる能力の向上のために、教科・領域、さらには学習指導要領(指定の教科書)の枠を超えた自由な異年齢のやりとりを「連歌的拡散思考型」で行う・・・・それこそが「松下村塾」のように個々の能力を最大限に引き出す教育になるのだと思います。

聖徳でも公立学校でも実際に時間割の中に組み込むことは難しくても、休み時間に少人数有志での自由参加という形で積み重ねていくというなら可能ではないでしょうかね?
(聖徳を参観した際、昼休みに図書室で希望者の英語の読み聞かせをしていましたが、あんな感じで「お楽しみの延長」として異年齢が自由なおしゃべりと楽しむ場を奨励する、とか。エナベルのように大人が指導者としてではなく、同じトークをしあう同士として教師が参加するとか、オンラインを使って日本各地の様々な人たちと自由トークをするとか)




12、今後に向けて②  上原先生のデータバンク
待ったなしで急務なのは、あちこちに散在している先生の資料を一括し、保存する作業。劣化や再生不可能な録音テープやビデオテープの問題もまったなしの状況です。また、現実問題として、例えば私がポックリ逝ってしまった場合、我が家にある資料は、このままでは片付けをする誰かにゴミとして処分されてしまう。そうした資料をどこにどう保管しておくのか?

上原先生の言葉が本当に世の中の救世主になるのはこれからだと思うのですが、ほとんどが絶版になっている著書も含めて、後世の人たちが閲覧できるような形で残すにはどうしたらいいのか?こうしたことは是非若い世代の方々の知恵や力をお借りしなければ不可能なことです。

既に具体的な話が難波先生や葛西先生からも出ているようですが、そうしたやりとりのネットワークづくりや、上原先生のデータバンクの問題は、本当に待ったなしです。

*これは超理想論なのですが、現在児言態の各会員が所有している「子ども達の作文」も本当はそのまま残したい資料ですよね。
教師の手が入っていないナマの言葉の貴重な資料。昭和から平成にかけての頃の子ども達の生態の記録ですから、これらも先生の資料同様に後世になればなるほど考古学的な価値(?)が生まれてくると思います。
既に論文の資料として使った作文であっても、先生の言葉を時間をおいて読み直すと全く違う観点に気付かされるのと同様に、新たなことに気付かされる可能性は十分にあります。

スキャンしてデジタルデータという手段もありますが、手間の問題というだけではなく、やはり鉛筆の走り具合などをはじめとして、ナマの原稿そのものからでないと伝わってこないものがたくさんあります。

そうしたものも本当は一括して永久保存できればいいんですけどね・・・。
ちなみに我が家には資料どり以外にも、普段から書いてもらった作文、10年間の教師生活のすべてが返却しないで保存してあるのですが、それだけでも衣装ケースにいくつもという分量です。ゴミになる運命なのでしょうが・・・なんか勿体ないです。




13、終わりにかえて 「移りと成る」
非常に難解で、重要な内容が示されていると感じながらも、学生時代に購入して以来、まともに読めていない先生の著書が「芸談の研究 ―心意伝承考―」です。特に「移りと成る」ということが気になり続けています。折口先生の「教育は感染作用である」という言葉もありますが、先生はこのことを「教育」という枠から広く拡張されています。

現代社会では、とかく当たり前とする常識の感覚で「そんなのお前には無理に決まっている」と言われ続けることが多いですよね。それが今の若者たちの「自己否定感」「絶望感」に拍車をかけていると思います。

でも日本古来の伝統の中には、「成る」ということに関して、普通の常識を超えた実例が数多くあるわけです。

先に紹介した児言態雑誌18号のP、51に「芸事の世界にみる日本古来の発想」という章をたてて、近くの百貨店での「京舞」披露でのことを書きました。

今は京都出身のなり手がほとんどいない。多くが地方からの若い女性たち。その方々が数年で 間違いなく「京女」に成る、という事実。舞妓に入門する際にいわゆる入学試験のようなものはないそうです。才能があるかないか、ではなく最も大切なのは「憧れ」なのだそうです。そしてそのプロセスで大事なのは、自分意識をなくすこと。
************************
上原語録 「あこがれ」
・子どもの生活の中にあかりをともす。クセのつく時期に次のあかりをともしてやる。それが『あこがれ』です。あかりをともせばハッと驚く。イメージを揺り動かしてやる。        (平成六年忘年会)
・日本人の考える魂は浮遊するんです。魂が抜け出てどこかに飛んで行ってしまう。飛んで行く先が『あこがれ』なんです。  (講義 国語)

**************************

このように日本の芸事の世界では、常識的には「成れっこない」ということが実現している。そういうことについてまとめています。
常識的には個人を縛るものととらえられている「型」「儀礼」が、こうした世界では人知を超えた境地へとつながっていくのか・・・その秘密を少しでも感じたい、という想いです。
そしてそれは別に古典芸能に精通したいからということではありません。
それこそ芸の道に限らず、通過儀礼などに象徴されるような日本人の体質の一番あった教育法であり、豊かな人間として成長していく・・・最終的には人知を超えた領域にまで到達していく「道」を示していると思うので。


T君が後で話してくれた事ですが、話や映像ではなく、実際に舞妓さん・芸妓さんを目の前にしたことは非常に大きかったということでした。
その場の雰囲気にふれることで、強い「共振・共鳴」が起きたのでしょうね。

児言態50周年の授業テーマは「「人間の生命活動と宇宙・自然の振幅」でした。翌年の聖徳との「連歌」を用いた合同研究授業もお互いの響き合いが重要な柱でした。

************************
上原先生語録
本当の『ことば』に震えさせるんです。『ことば』っていうのは「ことのハ」で、『刃』『歯』『端』・・・で、ものの先端。その人が言ったことの『ハ』に触れる、その時にピリピリする感性が豊かになるのが言葉の発達です。
 意味として「我々が感ずるもの」は『意識』、「私でも感じられる」というのが『生きる喜び』なんですよ。そういうふうに、子どもの魂をふり動かしてやるんです。 言葉に向かおうとする『気分』『段階』が問題なんです。それが感情教育ですよ。
 言葉に命を与えることが人間教育です。(国語教材研究 講義)

********************


ここで芸談の研究 (P12)から、少し長いですが引用します。(表記できない旧字体などは変えています)

************************
古傳の尊重は、古きが故というよりも、人間の感覚の基本的攝取の在り方自體が、傳えをつたわりながら自覚し、確認したものであることを知っていたからとしなければならない。”教え”そのものに價値があるのではない。それを”教え”とすることを感じるのである。それを”教え”とすることにということに”傳え”が見出されるからであり、そのことがつたわって来ることであり、感じるとはこうした仕組みを持っていたのである。(折口先生は、教育は感染作用だと言われたことがあるが、~「歌及び歌物語」八ふりの項参照 全集第十巻~それは教育の定義というよりも、教育という人間行為を、人間生命の不連続の連続という人間関係の中で把えた、またそうした人間関係を関係づけしめる人間本性に深く根差した見解であったと思う。)

 つまり”教え”(教訓)の価値は、その絶対性に在るのではなく、その相対性に在って、しかも相対性を成り立たせるものは、単に師弟関係・親子関係というよりも、師も弟子も、その二者関係を超えて、連綿的なつながりに還元される時において”教え”は成立するということである。いわば、この国の”教え”は古傳の性質を備えなければならぬことになる。それは特別に過去の時間を強調しない。特定の古い時期を指さない。特定の古い時期から、また特定の新しい時期へと連絡させる関心での古傳ではない。脈々と生き続ける”傳え”として、時間的なものより、傳わることの強弱において、強きものほど古傳的とされる。

 これらのことは、その真理性、普遍性と言ってしまうのと何等変わらぬように思われるけれども、未知に向かおうとしていないこと、また解決的でないことにおいて、その求め方と到達の仕方は異なるとしなければなるまい。従って”教え”は、解答として求められはしなくて、求める者に感染(うつり)感応する働き(作用)を言っている。だから、すくなくとも教わる者は、抗い、論うことは見当ちがいであり、その必要がないことになる筈である。教わろうとすることは、感染・感応を期して受けようとしているのである。感染作用が起きたとき、伝わったのであり、またそうあるべく伝授するのであって、ものを伝授しようとするのではない。

 この原理を直観的に把えているのが鏡に託された日本人の心情であろう。鏡が鑑に昇格するのは、われわれがこの原理を持つからである。師表が鑑に比喩されているのではない。鏡が映像を変幻自在たらしめるのは、鏡それ自身の作用ではない。但し、同一被写体の昨日の顔と今日の顔の違いを写し出すとき、人は鏡の前に立って真実の姿を求めようとする。そして必ず、現出するだろう真実の姿を期待するのである。
 鏡が鑑であるというのは、鏡が目標であり、理想という概念とは区別されなければならぬ。鏡が鑑に昇格するのは、見通され、見透かされる感覚をもたらすからである。見通す、見透かす働きに、連ねられた映像の結果(所産)を、あるいは貫かれた映像の深層をもたらす力を思うからに違いない。
 
*************************

この内容から広がったグループワーク・・・事前に私なりに思いつく「鏡」に関する事例を集めておいたのですが、それを敢えて出さずに「何か思いつくものある?」と聞いたら小学校時代にはまっていたゲーム「星のカービィ 鏡の大迷宮」のことを詳しく話してくれました。

*私がリストアップしていたもの(2021,11,11現在 その後さらに増えています)
「三種の神器の鏡(八咫鏡)」「能舞台 鏡板 鏡ノ間」「NHK新日本紀行 祇園 卒業間近の舞妓さん美容室」「白雪姫 魔法の鏡」「鏡の国のアリス」「閻魔の鏡」「ロンパールーム」「鏡を怖がる子」「ひみつのアッコちゃん」「神社の鏡」「鏡餅」・・・

現世・・・うつしよ 何が投影されたのがこの現実世界なのか?
見える世界・見えない世界、様々なものと共振・共鳴することによって「個人の自由(好き勝手)」とは全く異なる次元の世界がいくらでもあるというために、乳幼児や初等教育段階から「母国語」を大切にした生活を保障し、みんなが日本人として自然な社会で魂が磨いていけるようになればと願っています。


*************************

特別付録 「日本教育史特殊講義」 第1回・第2回よりの抜粋
*博士論文の下書き段階での講義だったので、最終的に出版された論文とは構成などが違っています。

日本教育史特講 第1回(昭和59年9月27日)
私の専門は心意伝承学でありますので、・・まあ心意伝承学というまだ「学」までつけれれうところまではいっていない、私が未熟だからいっていないということではなくて、まだ日が浅いっていうことで、一般にもまだ心意伝承学という言葉はまだつかわれてはいない。・・・まだ心意伝承論ということになると思います。まあですから心意伝承論についてお話していきたいと思っています。・・・

私の論文のテーマっていうのは、心意伝承論というのはいかに学問とするか、と・・・どうすれば学問になるんだろうか、そういうことであります。正しく言うと「心意伝承論の学的定位に関する研究」こういうことです。これを馬鹿みたいに30年近くやっているわけであります。学者っていうのは変なもんですね。30年近くやっていて一向に固まってこない。

で、先ず第1章では「先学心意伝承論におけるその対象限定とその目的論」・・・だから先輩の学者たちは心意伝承論をどんな風に限定しようとしたか、そしてその目的にどんなことを考えていたか、ということを整理してみようと・・・ 心意伝承論をきちっとやろうとした人には柳田國男先生、それから折口信夫先生・・・で、柳田民俗学と折口民俗学とは現象的には違うんですね。ただし根底はおんなじ事を考えておられるようなんです。で、一番それの違うところが心意伝承論のようであります。・・・同じようなものをつかまえようとしながらも、どうしてなのか柳田先生と折口先生っていうのは人間的な違いなのか・・・まただいたい同時代の人でありますので、折口先生はもう晩年まで柳田先生を師としてたてた人であります。私は自分がついたせいがありますから折口先生の方が好きで・・好き嫌いで言うと柳田先生はあんまり好きになれない。折口先生のことを少しいじめすぎである、ということをどっかで思ったりもする・・・この違いは簡単に言ってどこにあるかというと、心意伝承論を考えるときに「実感」が一番問題なんだろうと・・・こういう風に折口先生はおっしゃいます。これに対して柳田先生はものすごい反発をなさるんです。・・・・・

さて第2章はそもそも心意伝承とは言いますけれども、そもそも「伝承」という概念規整ができるかどうか、ということであります。非常につかまえにくいわけですね。対象が固定しているんだったら、概念を規整することはそんなに難しくはないわけであります。ただし伝承っていうのは時間経過を持っているということでありますから、流れているものなんですね。その流れを規整しよう、こうするわけですから・・・・流れそのものを問題にしようとするわけですから・・これは大変なんですね。水はどんな性質を持っているか?なんていうのは簡単なんですけれども「川の流れって一体何?」というとそりゃ難しいことでしょ。それと同じ事になる。だから先ず「伝承伝承」っていうんだけれども「伝承」の概念規整はどうすべきであるか、っていう問題・・・これを考えなくちゃならない。特に心意伝承としての対象限定。第2章は「伝承の概念規整と特に心意伝承としての対象限定」ということを問題にしております。

・・・ 教育でもですね・・・これは「伝承過程」でしかできないんでありますからね・・・・・・そんな事を言うとまたさしさわりが出てくるんですけれども、教育方法学なんていうのがあるでしょ。私は教育は方法学であってはならないと思っているんですよ。究極のところでは方法学であってはならんのですよ。方法を考えるのは教育学が未熟であるから方法を考えなければならない実験をやっているわけです。そうでしょ。だから教育は試みなんかであってはならないんですね、本当は。一切やっちゃいかんというのではないですよ。それは進めるためには仕方がないのなら・・。だけどそれはあくまでも試みなんですよ。

そちらの方が今は強くなっていますから、人間存在のつかまえかた自体がですね「消耗品扱いになっている」ということなんですよ。存在を消耗品にするから非行少年なんかでるんですよ。子供たちが非行を働いてしまうんですよ。だけども人間存在が伝承なんだというような構え方が生まれていましたらですよ、非行なんかできませんよ、人間。そうでしょ。

たとえばですよ、みなさんも知っていると思いますが昔の合戦なんかでは一人一人が名乗りをあげてね、「・・・我こそは・・の子孫であって・・代目の・・である」と名乗りあったわけでしょ。あの時代には私は非行少年なんて出ないと思いますよ。出ていないと思いますよ。それは人間のつかまえ方が単独ではないからですよ。どっかで子供たちが「俺は俺だ」なんて思い始めたからですよ。「俺のやることは人には干渉されることない」っていう風にどっかで思い出したからでしょうね。

・・・特に戦後の教育っていうのは自我の発見から始まって・・・高等学校の先生をやっているときなんか私は「君が君でない人と比べてどこまで君は君であるのか?」なんてことを盛んにいつも問い掛けてやっていたですね。「君は君自身のことをやれ」っていうようなことを・・。特に玉川にはっていからは個性教育を私は実践した。・・・玉川学園っていうのはすごい学校だったんですよ、その頃・・「右翼か左翼かどっちかわからん、とにかく過激な学校である」って。

・・・ 難しいことでやっていると思われるかもしれないけど、皆さんだって心意伝承的に生きているんですよ。先ほど自分の身の回りを見渡してみたら髪型から自分の装束から民俗と関わりを持たないで自分は存在していなかった、と気がついたのと同じように今度はそれの心です。私の心っていうのを考える時にですね、私の心はどこにもなくてみつかってくるものはすべて伝承されてくる心ばかり・・・・それを考えてみましょう、ということです。

ですから、最近ユング以来活発になってまいりました「深層心理学」、これとは関わりをもっています。心意伝承の問題は深層心理学とは関わりをもってくるだろうとは思うんです。だいたいユングという人が深層心理学をどっからヒントを得てきたかっていうと、東洋の学問なんですからね。・・・・

これが次にやったことなんです。第3章として「心意伝承の素材的研究対象とその範疇」・・・ そこで去年取り扱ったのが「予兆・予感」・・・まあ私なりの言葉ですけれども先験的心象という言葉を使います。・・どうですか?私の話を聞いていて?自分が今まで知らなかったのがブワーッと開けてきた、という気持ちにまだなれないかもしれないけど、そうなって頂きたいと思います。自分が経験を積む以前に、自分が経験によって知る以前に「そんなことは知っていた」ということがあるってことです。

ところが今日の教育学なんていうのは、こんなもん全く取り上げていないんですよ。だから面白くないんですよ、今日の教育学は。経験によって経験のための・・・なんてそんなアホなことばっかりやっているから・・・もうやらなければならない教育学はこっちです。経験に先立つものです。我々の心がそういうものを持っている、ということです。

君たちは子供を扱うんだから・・・むしろ子供の世界というか、まだ学校教育に汚染されていない子供たちは、こちらで生活しているんですよ。全く学校教育が汚染させてしまうんですよ。こちらの方がずっと強いんですよ、それでなかったら人間なんて生きられませんよ。何か知識がなければ生きられない・・・そんな馬鹿な事があってたまるもんか!って。そしてそういうものを無視するもんだから子供たちは学校の成績だけで「勉強できない」なんて・・・もう落伍者みたいにいわれたら「くそったれめが」と思うのは当たり前じゃないですか。みんな学校の先生が悪いんですよ。・・・・・

それから、もう時間が来てしまいましたから・・・「行動伝承」と「心意伝承」・・・今、細かい方から順番に言っていったんですね・・・それを今度は、心意伝承的なものはだんだんと表面に現れてくる。行動に出てくる。これはまだ表情とか感情といっているね・・・それが行動に現われてくる。で、行動にも伝承がある、ってことになってくる。だから心意伝承と言っているけれども、それは行動伝承でもあるんですよ。人間っていうのは。

・・・まだ研究不十分なのが「復讐」です。仇討ち、敵討ちですよ。こんなことをやっていたんだもの。明治に入って仇討ち禁止令が出てからだってまだ何遍かあるんですよ。これなんか完全に日本人の行動伝承でしょう。それに伴う切腹なんていうのもまだ研究不十分ですね。「ハラキリ」だから外人っていうのはよくつかまえられるものだね・・・かえって外人の方が「日本人・ハラキリ」ってなるわけでしょう。

それらがなぜそういう特徴を日本人が持っていたのかということを考えていかなければならない。そこで一番問題になるのは・・・もう時間がありませんので(といいつつ板書)・・・「血」「生」「死」・・・だったように思います。じゃあ今日はそこまでにしておきます。


日本教育史特講 第2回(昭和59年10月4日)より
・・・・ 第3節「行動伝承と心意伝承」これの関係を考えてみようと思っているわけです。・・・
その一番基本にはっているのは何かというと「人間は心も行動もすべて伝承から切り離すことはできない」ということですよ。

第4節 ・・・ここで「心意伝承と習俗」・・・そうなると同じ事ではないかということになるんですが、ここでは心意伝承の一番骨格になっているものは何であろうか、ということ・・それを問題にしようとしておるわけです。で、ちょっとこの前既に話したかもわからないけど「血」の問題をここでは考えようとしている。日本人の血です。それから日本人の「死」です。それから具体的なものとして「お産」を考えてみようと・・・血と死の具体例としてお産を考えていく。日本人の生活の一番骨格・根底をなすもの・・・それをここでつきとめてみよう、こういう風に考えております。

第4章は、このあたりはもう大勢の人が手がけていることになるんですが「心意心象の様式的事例と、その感情的構造」・・・この様式を生み出しているのも感情対応なんですね。感情対応が様式を作らせるわけですから。様式的事例を考えることによって日本人の感情的構造を考えてみよう・・・と、こういうことです。

先ず第1節は「犠牲」と考えてみようとしている。・・・「犠牲的精神の犠牲とは何か?」なんて聞かれるとみんなうろたえてしまう。よくわからないんですね。

生け贄なんですね。学者によっては日本人には生け贄はないんだという説を立てている学者もいらっしゃるんですけど、具体的に生け贄があったかなかったかということではなくて、私たちが精神的に考えている犠牲というものがどんな風に構築されてきたのかということを考えてみようとしているんです。 犠牲・・・「身替り」になる・・・これは大きい問題ですよ、日本人にとって・・・身替わりという様式を考え付いているというのは。だからね、皆さんは教育学を専攻しているんだけれども、本当に新しい教育学っていうのはね面白いと思わなくちゃだめですよ。私は良い学問をやったって皆さん自身が思わなくちゃだめ。

ところがもう教育学をやっている・・・先生の頭の中のイメージがもう貧困ですよね。・・・「人が人を教えることを教育という」なんてそんな事を一番前提にしているからなんですね。・・・それは私が自戒としていつも「人が人を教えるっていうことだけはやってはいかん」こう自分に言い聞かせている。

じゃあそうだとすると教育というのはどう考えるのか・・・この間国語教材研究のリポートを、夏休みの宿題でみんながだしてくれたのをいち早くバラバラ読んでいた。だけどもお粗末なんですよね。何がお粗末かっていうとですね、「方法」ばっかりを見ようとしているんですね。上原先生っていう特殊な先生に自分は教わっている、じゃあ上原先生のもっている方法をつかみとろう・・・そういうけち臭い泥棒ネコみたいな勉強の仕方は本当に悲しいっていう風に思いますね。方法なんていうのは決められないですよ。いくつでも出てくるんですよ。
それよりも大事なのは考え方ですよ。どう考えるのかっていうのが沸いて出てくればその方法なんていうのはいくらでもあるんですよ。ところが今、世の中自体が何かもう方法的なことばっかり考える。何か一つ問題が出たらそれをやるにはどうしたら良いだろう、これしかない、それで良い方法があったら教わろう・・・こういう日本人全体が泥棒みたいな・・・そして儲けることばかり考えている。

教育というのはね、私はこういう問題を考えなければならないと思いますよ。そうだとすると「身替り」なんていう問題が出てくるとですよ、じゃあ「個性」というのはどうなっているんだろうか?という問題がすぐ出るはずですよ。日本人は個性ということを考えなかったんだろうかと。身替りになれるという思想なんですから。あなたと私と取り替えっこしましょう、という考え方ができるんですもんね。そうだとすると日本人が考える教育とは何だったんだろうという風に考えていけばこんな面白いものはないですよ。

・・・そういう点を教育学の人がですね、もっと指摘しなくちゃだめですよ。日本教育史の人がもっと頑張らなければならないし、西洋教育史の人も・・・我々が西洋の学問をやるなというのではないんですよ・・・我々が何故西洋の学問をやるか、それはやがて自分の国に帰ってきて、自分の国・日本人のことを考えるために外を眺めることをしているんだということですよ。それなのにもう出っ放しで西洋のことしか知らない・・・むしろ外人の方が一生懸命日本のことを学ぼうとしているのに日本人が日本の事をさっぱり知らない・・・変な事が起こっているもんですよ。

・・・第1節の犠牲・・・これはね日本人の人間存在のあり方と関わってくる問題だということが言いたいんですね。だから個性というのを日本人はどう考えていたんでしょうかね、ってことを言ったんで・・・それは人間存在の、つまり基本的な考え方が西洋の発想とは全く違うということですよ・・・よろしいか?「我は我だ」なんていうのは日本人は発想できないんですよ。・・・ だからそのへんのところで日本人は「のりうつる」という考え方を持っているんだと思うんです。乗り移ってくる。そうすると我々の体は入れ物なんです。何者かが乗り移ってくれないと我々の体は働きをもたないと考えているんです。だからそこで考えられるのは今でもそれを持っているからですよ・・・「あなた自身の守護霊を拝みましょう」なんて大きな広告が出るじゃないですか・・・乗り移られるやつが乗り移るやつを考えているからですよ。

「幼神」なんていうのも教育学の人は絶対に問題にしておいてほしいところです。一体「幼神」っていうのは何だろうって。だからフレーベルだけが児童の神性なんていうのを初めて思い付いたんではないんです。日本人なんてとっくに知っているんです、そんなこと。それを教育学の人がやらないからです。日本人の幼神の信仰というのをやらないからです。そういう点では私は小原國芳先生はすごい人だったと思いますよ。玉川の建学時代から「うちの教育学の根底には宗教がなくちゃいかんのだ」と言った人でしょう。

・・・ 第2節は「落人」を取り扱う。・・・私だけでしょうか?「敗れ去った」なんていうのは美しいじゃないですか。「勝ち誇っている」なんて言ったら馬鹿みたいに見えてね、敗れ去ったなんていうと何だか同情が一変に沸いてくる・・・だいたい日本人は悲劇好みですから・・・この悲劇性っていうのは一体何なのか?・・・もう昔からそうなんですよ。神様が零落するんです。おちぶれるんです。その印象を持っているんです。・・・折口先生が言われた「貴種流離」というものに関係がある。・・・落ちぶれているのは貴種だったんです。貴種だから落ちぶれていくんだ、と・・・

「神と人」というのがだんだんと希薄になって「人と人」とになるんです・・・一応ね。その時に何を考えているか・・・というと「心中」です。日本人はそう考えていると思うんですね。人間関係ってこれだと思いますよ。やや古めかしいけど。人間関係は「仲良くしましょう」なんて言っている間は駄目ですよ。仲良くなれない。「心中しましょう」って言えばいいんですよ。日本人はそこまでは見つけたんですから。心中というのは「心中立て」することです。途中の言葉が切れてしまったんでですね・・・本来は心中立て。・・・「約束」なんていうものではないですからね、これは。だから「愛を誓い合いましょう」なんて言ったって駄目なんだよ、そりゃあ。それは西洋流です。心中立てが日本式の約束でしょうね。「立てる」んです。「立つ」んです。何か立ったものが見えるのでしょうね・・・だから立つと言うんです。心を立てるわけにはいかないですけれど立ったような感じになるんですね。「男を立てる」とか「操を立てる」とかと同じですよ。

次は第4節。・・・眷属の問題を考えてみようとしている。みなさん、眷属というのはちょっと馴染みが薄いかもしれません。人間関係というものは構造を持っているんですね。で、構造的に人間関係を考えてみる事をしているんですよ・・・人間は・・・いつの時代でも。

倫理なんていう学問がありますよね・・・倫理学なんていうのは私は人間関係の構築を学問としてるんだと言って間違いないと思っているんですよ。もっと平易に考えてみましてですね、「五倫」っていうのがあるでしょう・・・これは東洋的な考え方ですけれども・・・「5つの人間関係」・・・だから人間関係というものを5つにしぼるわけです。これは「ある学者が考えた」とか「儒教が考えた」というのではなくて、我々の意識ですよ。今はこれが崩れ始めているんですよ。崩れ始めたからおかしくなったんです。

・・・ あの小学生という動物は本当にこの点をものの見事に正直に映し出してくれますよ。小学生の世界ではこれは消えていないですから。主従関係・・・ガキ大将・・・そしてそれにゴマすり屋なんていうのがいて・・・同じですから。誰もそんなのを教えないのに眷属がいるわけです。だからこういうのをまだ建前として生きているのがヤクザの世界なんです。アニキがいるわけでしょ・・・弟分がいるわけでしょ・・・手下がいる。

で、これは乾いた言い方で今は話をしてきましたけれども、なかなかそんなものではなくてね、もっと深層心理的にそういう仕組みを持ったものだということが仏教関係を読んでいくとわかるんです。仏教はこの眷属の思想を根底に持っているな、と私は最近思ってさらに勉強をしているところです。こんな事を言うと仏教の専門家に怒られるところかもしれませんけど、曼荼羅がそうですよ。・・・お付きを。連れ歩いているやつが一杯いるんですよ。「おててつないで野道をゆけば」なんですよ。

で、あの形は好きなんですよ。小学校に行ったらやらないと駄目ですよ。先生が子供たちの手をつないで、また次の子が手をつないで、っていうあの形を作ってやるんですよ。そうすると子供は落ち着くんです。それは深層心理的にもですよ、眷属の意識はあるということなんですよ。個性尊重の教育だから1対1・・・そんなことばかりやっていたって駄目なんです。一人一人を大切に、なんて一人一人を隔離したって絶対に子供はついてこないですよ。集団性というのは大事なんですよ。個性尊重の教育と集団の教育は相対立するなんて思ったら間違いですよ。集団の中の「個」でしかないんですから。子供なんかまだまだ個別学習よりも集団学習の方が楽しいんですから。

・・・その次は「見顕わし」・・・日本人の「出たー!」ってやつですよ。あれ何ですか?・・・「出たー」っていうのは。あれ「発見」ですか?発見だったら「出たー」とは言わないんですよ。発見される方が主体ですから「出たー」になるんです。「出る力」を持っているから出られるんですからね、あれは。小さい頃から歌い続けてきたんだもん・・・今の子は歌っているかわからんけど・・・「出た出た月が・・・」って。「出る」ということに関してね、日本人は非常な何かを持っています。言うでしょ「出るところに出て話をつけよう」って・・・あれ英訳したらどうなるんでしょうね。日本人のニュアンスが英語に置き換わるかどうか。無理でしょうね、きっと・・・英語に直したら何ということなくなってしまうでしょうね。

・・・これと似ていますね・・・「身替り」・・・乗り移るものがある。身替り方は乗り移るものがあるから変わっていくんだけれども・・・そういう、その・・・霊魂が飛び出すっていうことですから・・・。で、こう考えると日本人の霊魂観というのはね・・・これも天才だからかなわないと思いますけど折口先生が言われたように「空中を散歩する」・・・日本人の霊魂は散歩しているんですね。ぶらつくんですよ。折口先生の使われた言葉で言えば「遊離魂」・・・遊離魂的な考え方があるからですよ。だからフーワリフーワリこの中に入ったり、出ていったりするわけです。

・・・歌舞伎はみんなこれをやっているんですね。歌舞伎の例をとらないでみなさんの知っている言葉で言うとね・・・先ほども「出たー」という言葉を教えたんだけれども・・・「正体」っていう感覚ですよ。「正体見たわよ」という正体ですよ。正体はそこにいるはずなのに、それとは区別して「お前の正体は・・だろ」と、こう言うのは何故かということですね。

もう一つ例をとっています。それは「道行き」です。これはもう「様式」というよりも完全に形になってしまっている。デパートでも残った・・この言葉は・・・・「春の道行きコート」なんて・・ちょっと寂しいですけど。日本人の精神世界のイメージが部分的ではあったかもしれないけど明瞭になってきたと思うんです・・・今日のこの第4章は・・。やや絵物語的ではありすぎますけれども日本人っていうのはこういう生活をしているわけです。・・・気になる挨拶がありますよね。昔の人は気にとめなかったんでしょうけど・・・「どちらへ」ってやつ。あれは何故だろう?あれ、外国人は嫌うんじゃないかしら・・・プライバシーの侵害である、なんて・・。これからは言ったらどうです?・・・「道行きだ」って。道行きを意識しているからではないでしょうかね。私は「どちらへ」というのは目的地を知ろうとしているのではないと思いますよ。・・・日本人の大切な言語観に「言語過程観」というのがある。こんな捉え方が出来るのも、日本人は「過程・プロセス」を問題にできる国民だからですよ。・・・ところが今、教育はそういう捉え方をしていないんですよ。だからせっかちになっているんですよ。過程を大切になんかしていますか?・・・プロセスを。この学習をして満点を取れ、なんてことではないんでしょう!・・・こういう意識が持てるのは日本人だからですよ。だから私が「方法を教える」とか「教育方法学」があまり好きではないというのはそれですよ。

・・・第5章・・・「心意伝承研究の目的と意義」・・・で、本来だったらこれが頭にくるんでしょうけど、まだ私自身が心意伝承の目的がどこにあるのか、というのはいろんな考察が終わってからにしようという様に思っているからです。今日はこれはもっと簡単に済ませて、折口先生・・・折口学っていうのはどういう学問なのかという話をしていこうと思っていたんですよ。それは来週にまわします。では終わり。