「英才児 その神性と野性」
葛西琢也著 平成18年2月10日 限定私家版
*ネットでのページということにあわせて、実際の文章とは段落・改行ををかえています。
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はじめに
英才児が英才児たる根本条件を無意識世界、潜在意識世界に求めた。知能指数140 以上の子どもたちを英才児と考え、聖徳学園小学校の子どもたちの作文を資料としてそ の成長の過程を見ていった。するとこの子たちがいつまでも潜在意識世界を離さないで いるところに、英才児たる理由があると考えられるに至った。故・上原輝男 学園小学校カリキュラム委員・玉川大学教授)の示唆によるものであった。
先生と英才児たちの出会いがなければ、こうしてこの子たちの声を世に問うこともなかったと思う。また、私にそのお鉢が回ってくることもなかったはずである。先生に導かれつつ、子どもたちの作文にその成長の跡を読み、成長の姿を描いてきたが、今、こうして振り返ってみると、この子どもたちにも導かれていたのだなとの思いを深くする。
胎内の思い出を語ったY・T君との出会いは二十年も前のことであるが、今もって鮮明である。 子どもたちの潜在意識世界とそこを基層とするイメージ運動を考えざるを得なくなっ た。引っ張り込まれたのである。鬼さんこちらと囃し立て手招きするわけではないが、 この子たちは子どもの成長の課題はここにあると、常に生命活動の指標を掲げていたの と思う。私が気づかなかっただけなのである。
その生命指標が作文の中に隠れていたり露わになっていたり。英才児は私たち小学校教師の先導者であると言うべきである。
こうして本書の編集中にも次のような注目すべき独白を目にした。N、1君、 四年生である。
自分とは何のことか。自己とは何のことか。自己とは身分証明書などで決定されるものでないのか。それとも顔か。目の虹彩か。指紋か。声紋か。足の裏のホクロの数 か。何なのか。どうやったら自分であることを証明できるのか。
自分は自分でないかも知れない。自分なんていないかも知れない。いないのだ。そんなもの無いのだ。そうだ。隣の席の人も、電車の中で隣り合わせた人も、すべて夢の幻なのだ。本物などない。ということは、これを書いている俺もいないのだ。
自己意識という問題に、今、直面している子どものことばの生々しさ。教えられたわ けではない。自己をこのように考えざるを得ない運命を背負ったこどもたち。運命とい うのは観念的すぎるかも知れないが、でも、やはりこのように思えてしまう感覚の持ち 主たちだということである。
学校でも家庭でも求められるのは現実への適応である。勿論それは必要なことなのであるが、この子どもたちの生命の発露としての意識活動は現実世界に止まっていない。現実を超えて飛ぶ力と射程とを備えている。やはりこの声を、 この姿を多くの人々に聞いてもらわなければ見てもらわなければと思う。それは世の子ど もたちの成長の課題がどこにあるか、私たち大人がどこに目を留めたらよいのかを如実 に示しているからでもある。
全七十七編。作文、詩、断章からなる英才児の資料集とも考えている。
第一章では、英才児が無意識世界、潜在意識世界をその存在の基層にしていることを、夢作文、穴作文などによって示した。さらに、イメージの誘導という視座が可能なことをのべた。
第二章では、白昼夢の作文、ひとりぽっちの作文を中心に夢うつつを英才児の基本的、根源的な生きる姿と捉え、そこに自己意識の発生が見られることを報告した。
また、 村上華岳の「二月の頃」を見て書いた作文から「世界定め」と呼ぶ全体構想の獲得を高学年の生態としてみることが出来た。自己意識も世界定めもトランスフォーメーション と呼ぶ、時空転換のイマジネーションがもたらすことを述べた。
第三章。壺の作文、夕日の作文が主となる。イメージ運動がもたらす創造性の発動を、 、黄昏時という境界領域がもたらす時空と、その中に包まれて現実世界超越していく子どもたちの姿を報告した。
第四章。「絵を見て作文を書く」からの資料が中心となる。子どもたちの時間と空間 の二重性に注目した。トランスフォーメーションを見立てとして、応用するようになった子どもたちの姿がある。
さらに、時間・空間とともにある人間の問題として、この子 どもたちのイマジネーションの能力を、予見性として認めることが出来る。これは私たちが忘れてしまった心見(うらみ)と呼ぶべき特殊洞察力であると上原先生は指摘している。英才児と歌舞伎に登場する童子とを共通項として結ぶことが出来たように思う。
第五章。論文は成長の課題とはならない。その到達点というべきものである。それ故、 間接資料と考えるべきで、いわば補足資料として採録した。
トランスフォーメーションという視座を得てから、それまで長い間なぜそのような作文を書かねばならないのか分からず、気にかかっていた不可解な作文が、収まるべき位置を得た。時代背景のだいぷ前のものが資料として採録してあるのはそのためである。 平成十七年十二月吉日 著者
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目次
はじめに
第一章 潜在意識世界を生きる子どもたち
1,論文を書く子どもたち
2,英才児の視線・感覚
3,潜在意識世界からのイメージ
4,イメージの誘導
5、潜在意識世界を生きる英才児
6,現実世界を超えて
第二章 イマジネーションと自己意識と世界定めと
1、夢うつつの英才児
①英才児のレム睡眠
②トランスフォーメーションと明晰夢
③ひとりぽっちと自己意識
④人間関係意識
2,潜在意識世界をはなさない英才児
①箱庭,盆景,風水
②絵を見て作文を書く
③世界定め
④英才児のトランスフォーメーションの能力
第三章 英才児のイメージ運動と創造性
1,3・4年生に見られる世界認識の転換
①潜在意識と顕在意識のはざまで
②イメージ運動の活発な子どもたち
③創造性と人間成長
2,時空の転換と子どもの神性
①夕日作文と子どもたち
②「ひぐれみち」の境界領域
③世界定め
第四章 トランスフォーメーションの獲得
1,子どもの時間と空間の二重性
①時空転換のイマジネーション
②トランスフォーメーションの発動 ー世界定めー
③トランスフォーメーションの適応 ー見立てー
④トランスフォーメーションのつぼ
2,英才児の世界定め ー心見(うらみ)ー
①「白い時間(とき)」の触発
②イマジネーションの予見性
③イマジネーションと英才児
④心見の能力
第五章 子どもたちの論考 ―卒業論文ー
人間成長の階梯を早くのぼった証のために、間接資料として
おわりに
採錄作文一覧
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おわりに
英才児を今の世の中は認めているのかいないのか。その存在を忘れているのではない かとさえ思う。
聖徳学園小学校での英才教育発足時。顧問の伏見猛弥先生とカリキュラム委員の先生方には、この世の中に於ける英才児の位置はどうあるべきかという共通の思いがあったと聞く。
上原先生は、この世の中に於ける役者の位置を、我々一般生活者の外に、この生活者の局面を再現することによって生きる人々としている。つまり、二重生活者と言うべきか、あるいは、この世を複眼的に生活することを運命づけられている人々と指摘した。同じように英才児のこの世の中に於ける位置についても、稚児や童子を生み育ててきた日本人の生活、その内を貫く伝承感覚の中に見いだしていたに違いない。その運命、宿命を別にしてその人間のこの世の中に於ける位置を見いだせぬとした先生であった。
もう仮説ということもないのであろうが、時空転換のイマジネーションという視座を 得てから英才児の本質、その能力を鮮明に見ることが出来るようになったと思う。無意 識世界、潜在意識世界を離すことなくこの世を渡っていく子どもたちには、己を超える もの、日常性を超えた世界が見えている。そのような世界からの働きかけを感じている ことを、子どもたちの作文が語っている。副題にある神性とはこのことである。
一方、野性をどこに見いだしたのかといえば、この子どもたちの体感である。トランスフォー メーションは単に映像が見えるだけではない。体感の伴う、感覚の濃密な別時空の出現 としてある。この子たちは人間の神性と野性をより鮮明に体現している子どもたちとい えよう。
今年は上原先生没後十年目の年である。その十年前に本書は公にされていなければな らなかった。遅すぎる宿題の提出である。先生の叱声が聞こえてくる。英才児の声を、 その生き様を世の人々に問わなければならないと、先生からのそれは命令であり叱咤で あった。難題には違いなかった。
ただ、何に着目して、子どもの成長の姿をどう描いて いけばよいのか、これにあまり迷うことはなかった。日々顔を合わせる子どもたちが示 してくれていた。それは思わぬ時に思わぬ所からやってきた。いつしか、次は何が現れ るのか、どのような問題が見えてくるのか期待を持って子どもたちの作文を読むように なっていた。私は、正に先導者としての子どもたちを前にしていたことになる。
「絵を見て作文を書く」という方法が有効であることが分かってきてから、中でも俯瞰景がこどもたちの潜在意識を刺激し触発することが分かってからは、待つだけでなくこれを見た子どもたちがどのような反応をするか、新しい期待を持っていろいろと試みるようになった。絵が装置の働きをしているということで、描かれた世界に子どもたちのイメージ世界が触れて噴出するのだと考えられる。そこには、民俗心意の伝承体としての子どもを認めることもできる。ここに今後の研究課題がある。
上原先生の指摘がある。それをここに書き添えておきたい。
「郡司正勝刪定集」第六巻の解題に、郡司先生の言葉を引き、「少なくとも、今日の私にとって唯一無二の道標であり掟てと思われる。」 と結んでいる。
われわれはこの影を見ること、「御影」に扮することによってしか本体を見透すこと が出来ないのである。 人間は、その後ろの本体をつねに透視するのだとおもう。いや人間には、仮装の造 り物を作り出すほかに、本質に迫る「しかけ」は与えられていないということになるのである。